嗚呼、牽牛子塚

10月に飛鳥に行ったとき、ちょっと時間があったので、飛鳥駅の西側を散策してみることにした。

そのあたりには

岩屋山古墳
牽牛子塚古墳
越塚御門古墳
マルコ山古墳
束明神古墳

などがあり、ちょっとした「王家の谷」の様相を呈しているのだ。
猪熊兼勝先生の、皇子たちの古墳が「北斗七星」の形に並んでいるとの説に従えば、そのあたりは北斗七星の柄杓の底ということになる。

 

飛鳥駅のコインロッカーに荷物を預けて、意気揚々と出発。

まず向かうのは「岩屋山古墳」。

ここは駅から歩いてすぐ。
以前、応援大使のお仕事をちょいと抜けだして、事務局長に案内してもらったことがある。一人定例会みたいで、とても贅沢な時間だった。
墳丘の上に上り、あまりの眺めのよさに「ひゃっほ~い」とはしゃいだりしたのもいい思い出。

そんなことを思い返しつつ、岩屋山古墳から牽牛子塚古墳へ向かう。

このあたりの道は細くて曲がりくねっていて、なんかとてもいい雰囲気。
住んでいる人は車の運転が大変だろうけど、観光客にとっては情緒があってなかなかよい。
ずっと前に牽牛子塚古墳に行ったときには道に迷ってしまい、畑仕事をしているおじさんに

「牽牛子塚古墳に行きたいんですけど~」

と泣きついたら、笑顔で

「牽牛子さんはそこ。そこの山の上」

と教えてくれた。
教えられた結構急な坂道を、よいしょよいしょと上り、牽牛子塚古墳やその手前にある越塚御門古墳などを見て回った。


その時の牽牛子塚古墳。
発掘調査後だったので、シートがかけられていた。


墳丘から見渡した景色もなかなかよかった。

皇極・斉明天皇の真陵ともされる牽牛子塚古墳。
彼女はこんな穏やかな場所に眠っているんだなぁ、と思った。

 

そんなことを思い出しつつ、確かこの道を右、と牽牛子塚へ向かおうとすると。

あれ?

見覚えのない広い道を、ダンプカーが砂埃を上げて走り抜けていった。

こんな道あったかな?

と歩いていった私の前に、驚愕の風景が。

  

穏やかだった山は無残に削られ、ショベルカーが忙しく動き回っている。

笑顔で教えてくれたおじさんの田んぼも、砂利が敷かれてダンプカーの駐車場になっている。

……力が抜けた。

またキトラ古墳周辺みたいにするつもりなんだろうか。
キラキラした公園にして、芝生を敷き詰めて、バーベキューとかやっちゃうんだろうか。
高松塚式プッチンプリン型かキトラ式雪見だいふく型か知らないけれど、墳丘を「復元」しちゃったりするんだろうか。それは本当の「復元」なんだろうか。

砂埃が目に入って、涙が出た。

「そんなに落ち込まないでよ」

現地で落ち合った知人が声をかけてきた。

「アンタが見たっていう牽牛子塚も、もともとの姿じゃないわけだし。古墳がどんな姿だったかなんて、今を生きる人には誰にもわからないんだからね」

「それにしてもさぁ、これはひどいよ」

「まあまあ」

知人はあくまで鷹揚だ。

「その時代によって事情は変わるんだよ。こうして表面を取り繕って観光客を大勢呼びましょう、ってのが今の時代の要請なんでしょ。それがいいか悪いかは、のちの時代の人が判断すればいいんじゃないの。それに、アタシこういうの嫌いじゃないから。なんたって『工事好き』だから」

「工の字違うじゃん、アンタは興事でしょ」

「同じことだよ。石運んで山にするのも、山削って公園にするのも。だからもうくよくよしなさんな、アンタがブツブツ言ったところでどうなるものでもないんだから。公園ができたらまたここに来て、うろうろ歩きまわればいいんちゃう?」

 

……なんだか納得できない思いのまま、私は一人、「牽牛子塚古墳整備工事」現場をあとにした。

ホントにいいのかなぁ。
後世の人たちは、私たちの生きたこの時代を、どのように評価するだろう。

 

古代史
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梅前佐紀子の古代史日記

コメント

  1. れんし より:

    後世の人は「狂心の復元」と呼ぶかもしれませんね

    • 梅前 佐紀子 より:

      「興事」も、当時の人からは「狂心」と言われ、それ以降ずっと「おバカな女帝のやったこと」とされてきましたが、ここ最近「いや、そうじゃないかも?」という風向きになってきましたよね。
      それと同じで、時代の要請に従って、評価も変わるのかもしれません。
      バーベキューができてよかった!とかね。んなわけないか。