貴公子・裴世清

推古16年(608)4月、遣隋使・小野妹子の帰国に合わせ、隋から答礼使として裴世清(はいせいせい)という人物がやってきました。

裴世清についてはこのブログに何度も取り上げているので、ご存知の方も多いでしょう。
裴世清になったつもりで山田道を歩いたりしたこともございました。(「ハイセイセイ子、山田道をゆく」)

今回はこの「裴世清」が、実は結構な「お坊ちゃま」だったというお話です。

 

答礼使として隋から遣わされた裴世清は、当時「文林郎」というあまり高くない地位にありました。(従八品くらい)
このことから、倭国に送るならこの程度の人間で十分と隋が考えていた、つまり倭国は重視されていなかった!という説もあるのですが、実はそうでもないようなのです。

「新唐書」によれば、裴世清は宰相を幾人も輩出した名門の一族の人間なのです。それなのに地位があまり高くないのは、倭国に遣わされた当時、まだ若かったからと考えられているそうです。

つまり。

倭国にやってきたのは、名門・裴家の若きプリンスだったということです。

なんか、ワクワクしますな。

 

若き貴公子・裴世清の目に、倭国はどのように映ったのでしょう。

そして彼はその後、どのような人生をたどったのでしょう。
知りた~~い!!

裴世清に関しては、なんというかちょっと「追っかけ」みたいになっちゃってるワタクシ。

 

 

裴世清の来倭から24年後、舒明4年(632)に、唐から高表仁という人物がやってきます。

彼は、かの有名な「(倭国の)王子と礼を争った」とされる人物です。
この「王子」とは山背大兄皇子という説、蘇我入鹿という説、他にもさまざまあって定まりませんが、とにかく倭国と揉めて、「朝命を宣べずして還る」ことになり、高表仁は「緩遠の才」がない奴、と旧唐書に記されてしまっています。「ダメ男」のレッテルを貼られたわけですね。

この高表仁も、実は結構な一族の人間でございまして、彼の妻はなんと隋の文帝の孫娘(大寧公主)でした。
この結婚は597年という記録があるそうなので、20歳で結婚していたとして倭国に来た当時高表仁は55歳、ま、結構なおっちゃんだったというわけですね。
小説によくある「唐の威光を鼻にかけたイヤな奴」というのも、ま、当たらずといえども遠からずといったところでしょう。


そういう意味でも私はやっぱ高表仁より裴世清だわ♪

 

 

古代史
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