古代の信濃について

ここのところ、「信濃」について考えているわけですよ。

『日本書紀』には、天武天皇が信濃に遷都しようとしていた形跡があるのです。(まあ、首都ではなく「副都」としてなのかもしれないけれど)

天武13年(684)2月、「都をつくるべきところを視察させる」との名目で信濃に人が派遣されていて、その年の4月には信濃の図(地図)が献上されています。
天武14年(685)10月には「信濃に行宮(かりみや)」を造らせた、というのですから、天武が長生きしていたら、もしかしたら都は信濃に遷っていたかもしれません。

それにしても、いきなり「信濃」。

古代、「信濃」に何があったのでしょう?

 

『日本書紀』では、信濃は「科野」「斯那野」の名でも登場します。

古いところですと、ヤマトタケルが「信濃国」に入り、けわしい山を分け入り進んだところ、山の神が姿を変えた白鹿に出会い、それを射殺した話があります。
そこではヤマトタケルは「信濃国と越国が従わない」と言っていて、当時は激しい抵抗は見せないまでも「まつろわぬクニ」であったことがうかがえます。

雄略天皇の御代になると、信濃国と武蔵国の仕丁が天皇を批判して鳥養部にされた話(雄略11年10月条)があるので、この頃には信濃も、大王家に仕える人間を差し出すようになっていたことがわかります。

面白いのが、推古35年(627)5月条に
「蠅がたくさん集まり、十丈ほどの高さになって大空に浮かび信濃の坂を越えていった」
という記述があり、
斉明6年(660)12月条にも
「科野国から蠅の大群が巨坂(おほさか)を飛び越えていった。大きさは十囲(といだき・人が十人で囲んだくらい)ほどもあり、高さは天に達していた」
という記述があること。

蠅?

なにそれ?

ちょっとよくわかりません。蠅が発生しやすい土地だったのか? それとも何かの比喩なんでしょうか。

ま、それはさておき。

持統5年(691)8月には「信濃の須波(すは)を祭らせた」という記述があり、これは「諏訪大社」のこととされています。

 

一説には、信濃あたりは、本州で最後まで縄文文化を残していた地域だったとか。稲作は信濃を飛び越え、北を回って信濃に入ったらしい。
(まあ、山に囲まれた地形と気候がそれを拒んだともいえなくもないですが)

そこに都を遷そうとしていたらしい天武天皇。

『善光寺縁起』に残る、皇極天皇が地獄に堕ちていたのを善光が救ったという伝説。
法隆寺に残る「聖徳太子の御文箱」に入っているとされる、「善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙」。

なんか、変に因縁めいたものが、当時の天皇家(大王家)と信濃との間にはあるような気もします。

 

まあ、真相は永久にわからないのでしょうけれど、こういう謎が古代史に彩りを加えてくれているように思うのです。

 

 

 

 

古代史
スポンサーリンク
梅前 佐紀子をフォローする
梅前佐紀子の古代史日記

コメント

  1. れんし より:

    信濃ですか…私も興味大ありです。

    実は私が以前ブログに書いたことですが、「善光寺周辺には壬生部があった」という説があるそうです。
    これが本当だとすれば、以下の2つの謎はある程度解けます。

    1.壬生部は上宮王家が所有していたので、聖徳太子との説話はありうる
    2.皇極期に壬生部が接収されて土木工事に使役されたことから、日本書紀は入鹿の悪行としているが、皇極が命じたとすれば、彼女が地獄に堕ちる話もありうる

    そしてなにより面白いのは、善光寺創建の年とされているのが上宮王家滅亡事件の翌年、皇極3年(644年)なんです!(以前のブログでは643年としてましたが間違い)

    とはいえ、天武がなぜ注目したのかは謎のままですが。

    • 梅前 佐紀子 より:

      なるほど。上宮王家の壬生部があったんですね。
      その設置経緯も気になるところです。

      天武としては、自らの基盤である美濃に続く地としておさえておきたかったのかもしれません。
      ただ、東国ににらみをきかせる拠点としてならまだしも、そこに都を造るか? って感じがしますが。

  2. 弓張月 より:

    善光寺は謎の寺のようですね。寺の創建者は本田善光と秦巨勢大夫(扶桑略記)の説があります。
    そして、奥の院と言われる上松の産土神、駒形嶽岳駒弓(こまがたけこまゆみ)神社があり、駒形嶽岳駒弓神社・本殿に木馬4頭が神馬として祀られ(うち1頭は盗難)とのことです。 http://nagano-gagaku-kai.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-5ac2.html 
    この本殿にある三頭の神馬の色ですが、白馬,赤馬,黒馬では?と思うのです。そうなると、
    盗難に遭った馬の色は青色を創造しますか。秦巨勢大夫(扶桑略記)の「扶桑」は「延喜式(927)祝詞「東は扶桑に至り、西は虞淵(ぐえん)に至り」※神皇正統記(1339‐43)上「東海の中に扶桑の木あり、日の出所なり」 〔楚辞‐離騒〕 https://kotobank.jp/word/扶桑-618604 です。つまりは、青龍でしょうか。善光寺の東には、常陸国(常世国の)があります。水戸徳川家の瑞龍山,小野崎氏の小野崎城(常陸太田市瑞龍町),物部佐竹氏の太田城は、別名青龍城,舞鶴城。不思議なことに繋がります。

    うつろ舟伝承は常陸国にもありまして、ディープに調べてると広島県安芸郡府中町にある多家神社は、「たけじんじゃ」なんですね。であると、竹=たけ=多家=たか=高・鷹となり、2014年5月26日付けの『茨城新聞』は川上仁一の忍術を伝える伴家の古文書から「うつろ舟奇談」に関わる史料があり、漂着地の実在地名が「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)と記され、具体性があると岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授が発見したと報じた。に対して、虚舟の形をしたモニュメントを兼ねた遊具が設置された場所は、とても離れてる茨城県鉾田市大竹海岸(鹿島灘海浜公園)なんです。想像力を豊かに「大竹」を考えると、大竹=おおおおたけ=王の多家=太田・大田家(茨城県潮来市大生には大生古墳群,大生神社 https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-50/12-50.html ),竹取物語=多家取物語,香取神宮=家取神宮となりますか。古代史の謎へのダビンチコートですかね?

    • 梅前 佐紀子 より:

      さまざまなご教示、ありがとうございます。
      古代史は知れば知るほど謎が深まっていきますね。
      私はその入り口にすらたどり着けない感がありますが(笑)