「令和の宴」と長屋王の変

「令和」のおかげで一気に有名になった

大伴旅人の「梅花の宴」

皆さまもうよくご存知の通り、天平2年(730)春に、大宰帥・大伴旅人の邸宅で、歌人たちを集めて行われたという宴会です。

『万葉集』巻五には、「令和」の語源となった「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ」(初春のよき月がかかり、気は清く澄み渡り風はやわらかにそよいでいる)という序文に続き、当時「筑紫歌壇」とも言われもてはやされていたそうそうたる歌人たちが歌ったとされる32首の歌が記されています。

優雅ですなぁ。まさに天平文化。

 

……などという雅(みやび)な雰囲気を、根こそぎくつがえす新説があるらしい。

ご紹介いたしましょう。

 

まずは、宴が行われた年に注目。

天平2年(730)

この年の前年(729)に起こっているのが「長屋王事件」

そう、当時政界のトップの座にあった長屋王が、「密かに左道を学んで国家を傾けようとしている」との嫌疑をかけられ、妻である吉備内親王、子の膳夫王らとともに自ら死を選んだという事件です。

この事件については、讒言であったとされる説が根強くあります。
つまり「無実だった」というわけですね。

当時、聖武天皇には、非藤原氏系の女性が生んだ安積親王しか男子がいませんでした。
藤原不比等の娘、光明子が産んだ男子は、その前年(728)にわずか一歳で没してしまっていたのです。

ところが、天武天皇の孫である長屋王は、元正天皇の妹である吉備内親王を妻とし、膳夫王、葛木王、鉤取王という3人の息子をもうけていました。
血統的に言えば、安積親王より優れた王たちです。もちろん、いかに藤原不比等の娘とはいえ、臣下の娘にすぎない光明子がこれから男子を生んだとしても、彼らの血統にかなうはずがありませんでした。

「長屋王の変」は、長屋王と吉備内親王の間に生まれた3人の王たちを排除するために仕組まれたものだというのです。

藤原不比等は、この変の8年前(720年)に没しています。
不比等を失い、政界の中心であろうとした藤原四兄弟が暴走した結果ともいえるかもしれません。
事実、事件後、光明子は、臣下の娘としては初めて、皇后の地位についています。

 

「令和の宴」は、この変の翌年に開かれています。

いかに都から遠く離れた大宰府とはいえ、政界の重鎮が死に追いやられた事件は、きわめてショッキングな事件として伝わっていたはずです。もちろん、光明子が皇后にたてられたことも。

 

「令和」の典拠となった万葉集の序文ですが、実は下敷きとされた中国の古典がありました。

「張衡(ちょうこう)」という人が書いたとされる「帰田賦(きでんふ)」です。
これは「文選」という、いわゆる「名作全集」のような本に収録されており、遣唐使の手によって日本にも伝えられ、貴族たちのいわば必需品としてもてはやされていたらしい。
この「帰田賦」には、

於是仲春令月 時和気清

という、まさに「令和」のもととなった文章ととほぼ同じ文章があるのです。

さらに、その「帰田賦」にも下敷きとなった話があり(ややこしい!)、それは書で有名な王義之が開いたとされる曲水の宴の模様を歌った詩「蘭亭序(らんていじょ)」なのですね。
これは「宴をひらいて歌を詠み、その歌をまとめて序文をつけた」という、まさに「令和の宴」と同じシチュエーション。

これら「帰田賦」や「蘭亭序」は、「老荘思想」に基づくものと言われているそうです。
「帰田賦」は役人になるのをやめて田(田舎)に帰るという話ですし、「蘭亭序」は死生を気にせず今を楽しむという、刹那的な話だそうです。

これは、民や役人には一生懸命働いて国家に貢献してもらいたい政治権力からすれば、きわめて都合の悪い話で、いわば「反社会的思想」でもあるのです。

これらのことは、「文選」を読んでいた当時の知識人としては、知っていて当然の基本的知識だったはず。

当然、「梅花を愛でる令月の宴」とくれば、「ああ、あれね」と「帰田賦」や「蘭亭序」を連想したことでしょう。

それが「反社会的」「反国家権力的」な思想に基づくものであることも。

長屋王は、国家を傾けたとして抹殺されました。
長屋王を死に追いやった、藤原氏を中心とした権力を、大伴旅人たちは、一見しただけではわからない、しかし知識のある者だけにはわかる方法で批判したのではないか。都から遠く離れた大宰府の地から。
そう考えることもできるのです。

「大伴」という氏族は、もともとは「大」(大王に)「トモ」(仕える者)でした。
遠い昔は、大伴氏こそが大王の一番近くにあり、その権力を支えていたのです。孝徳天皇即位の際には、旅人の祖父・長徳が、金の靫をつけて壇の右に立ちました。大王を支える第一の臣下としての、大伴氏の姿です。

旅人には、そうしたプライドがあったのかもしれません。

もしかしたら旅人は、剣をペン(筆)に持ち替えて、時の権力者・藤原四兄弟をやんわりと諫めようとしたのではないでしょうか。

あまりいい気になるな。図に乗ってやりたい放題やっていると、世に厭世的な気分が蔓延し、取り返しのつかないことになるぞ……。

 

天平9年(737)、藤原四兄弟は全員、疫病に倒れます。

その後、皇位継承者を聖武と光明子の間に生まれた子に限定した結果、皇統は行き詰まり、遠くさかのぼって天智系の皇子が皇位を手にすることになりました。
その即位は、大宰府で行われた「梅花の宴」から40年後(770年)のことでした。

 

special thanks to 河内春人先生 年号「令和」

古代史
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梅前佐紀子の古代史日記

コメント

  1. れんし より:

    とても興味深い説です。
    というか、実際にそうだったではないでしょうか。

    もしそうした背景をすべて承知のうえで、中西進氏が「令和」を安部首相に提案したのだとしたら…。
    それもまた面白い話になりそうですね。

    • 梅前 佐紀子 より:

      そうだったとしたら中西先生、なかなかやるな、ですね。

      「梅花の宴」は正月15日のことで、実際に梅の花が咲くにはちょっと早かったようです。
      歌の中にも、「梅の花ってどこよ。もしかしてあの雪のことか?」とか、「雪かと見まごうほどに散ってるのが梅なんだよ」とか、本当は咲いていなかったんじゃ?と思われる歌がいくつか混ざっています。要するに、帰田賦や蘭亭序の宴を模したということが重要だったのであって、梅の花が咲いていたかどうかはあまり関係なかったのかもしれません。
      『万葉集』には、この宴の前に旅人が藤原房先に珍しい琴を贈る歌もあって、「あなたに反感なんか抱いていませんよ」という姿勢を示したうえで、この宴へと続きます。そのあたり、旅人もなかなかしたたかです。
      風流歌人のひそかな反抗。もしかして中西先生も?

  2. 弓張月 より:

    久しぶりにお邪魔します。
    今回の元号「令和」は、詠み人知らずの源氏物語と平家物語がある訳であり、世界から平和ポケと言われて訳でしょう。
    マレーシアのマハティール首相は国連で、 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54162  (欧米の唯我独尊を厳しく追及、戦争のない世界を訴える)と吠えたそうです。
    縄文時代から続く http://nihonmagokoro.blog.fc2.com/blog-entry-111.html 様々の文化(天皇制もその一つ)は、ナンバーワンではなくオンリーワンなのでしょうね?

  3. 弓張月 より:

    それと、鹿児島県徳之島では、「日本最大級の海底鍾乳洞発見 探検家調査で判明、総延長1キロ、縄文土器も 天城町 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190508-00010001-nankainn-l46 」とのことで、土器の破片もあったようです。