神田明神

先日、お茶の水での講演会に行った際、ご一緒してくれたMさんが

 神田明神

 に行くというので、連れて行っていただいた。

 一度も行ったことがないのでね。

 ま、そんなもんです、地元民は。

 知り合いの奈良出身の方も、

大仏なんて小学校のとき課外学習で行ったくらいで、それから一度も行ってません

 なんて言ってたしね。

 私も東京タワーには小学生の時以来、2年ほど前に一度上ったきりだし、スカイツリーに至っては一度も行ったことがありません。

 なので、 

初・神田明神。

 

お茶の水駅で待ち合わせ、Mさんに連れられててくてくと神田明神へ。

駅から徒歩5分ほど。 

意外と近い。

 

 

 横には近代的な神田明神会館が。

 

ビルの谷間ではありましたが、神社が鎮座するだけあって、高台になっております。

銭形平治が住んでいたとされる「神田明神下」ってえのは、この高台の麓ってことですな。ふむふむ。

 

神田明神はもともと、大手町に現在もある「将門首塚」の近くにあったそうですが、徳川家康が江戸城を開くにあたり、この場所に遷座したとか。

御祭神にも、大黒様として知られるオオナムチのミコト、恵比寿様として知られるスクナヒコナのミコトとともに、平将門が「まさかど様」として祀られております。

 

平将門って?

 平将門は、平安時代中期の関東の豪族です。

「平将門の乱」で朝廷に謀反を起こしたとして討ち取られ、その首は平安京でさらし首にされました。首は胴体を求めて舞い上がり、関東まで戻ってきて、落ちたところが現在の首塚と言われています。

将門は、桓武天皇4世の孫とされています。桓武天皇の孫の孫、ってことですね。(5世という説もあり)

桓武天皇といえば、天智天皇の曾孫。天智天皇が道君伊羅都売(みちのきみのいらつめ)に生ませた施基皇子が桓武天皇の祖父です。

 つまり平将門は、天智天皇の曾孫の孫の孫。つまり天智7世の孫、ってことですな!

知ってる人と接続し、一安心する古代史バカ・梅前。

 

まあ天智天皇7世の孫とはいっても、そこまでいくと単なる関東の一豪族にすぎなくなっており、将門も若い頃京に出仕したときは「滝口の衛士」という、内裏の庭を警護するとはいえ、弓箭も持たせてもらえない一般人となり果てていたらしい。

 

そのうえ、世渡り上手な者が出世していくなか、そういうことが苦手だったのか将門は出世もできない。かなりのうっぷんがたまっていたと思われます。

関東に戻った将門は、水を得た魚さながら、自分自身にふりかかる難題を次々突破し、さらには人に頼られやすい性格だったのか、窮地にある人に力を貸して旧弊を破壊していきます。

母方の実家が現在も相馬野馬追で知られる相馬郡だったこともあってか、将門は馬が得意だったらしい。その上、かなりの戦上手。打つ手打つ手がぴったりはまり、連戦連勝、飛ぶ鳥落とす勢いとなります。

 

けれども、勢いに乗って朝廷が権威の象徴として国司に預けた印璽を奪い、「新皇」(新しい天皇)を名乗ったのはやりすぎでした。朝敵となった将門のもとには、討伐軍が差し向けられ、宿敵・平貞盛の放った矢によって射貫かれた将門は、あえなく戦死をとげます。

 

謀反人として討ち取られた将門の首は京に運ばれ、さらし首にされます。

その首は腐ることなく、「俺の体(からだ)はどこだ。体をつけて戦をしよう」と大声で呼ばわったといいます。そして体を求めて東へ飛び、落ちた場所が現在大手町にある「首塚」とされています。

そのかたわらに建てられた神田明神の「神田」(かんだ)とは、将門の首が叫んだ「からだ」からきているという説も。ひょえ~。蕎麦なんかすすってる場合じゃありませんよ、もう。

 

江戸城との関わり

 将門の死からおよそ660年後。

徳川家康が、海沿いの小規模な城にすぎなかった江戸城の拡張に着手します。

 家康は城の背後の山を削り、入江(日比谷入江)を埋め立てます。

そして、首塚を守っていた神田明神を、城の表鬼門の方角(北東)にあたる、削った山の上に遷します。

さらにその先の上野の山の上にもお寺(寛永寺)を開きます。

裏鬼門(南西)には増上寺を置くという念の入れようでした。

 

増上寺と神田明神、寛永寺を結ぶ線は、江戸城の真上を通っています。

 

そうした「鬼門封じ」を考え出したのは、家康のブレーンの一人だった南光坊天海ともいわれています。

 

この天海がなんと明智光秀と同一人物だったという小説を読んだことがあります。

 いろいろ妄想するのが楽しいっちゃー楽しいってことなんですけど、光秀と同一人物だったとすると享年は116歳ということですから、いくら天海が長寿といってもそりゃないでしょう、ってお話ですね。

 

でも、将門を江戸の鎮護として使うとは、天海の発想はなかなかのものです。

 

いや、将門の首塚があったからこそ、そこを天下を治める城として使おう、と思ったのではないでしょうか。

 

関東の人々のために力を尽くし、京の朝廷と対峙した平将門。

 

その将門が今も東京を守っている。

 

そう考えると、確かに心強いものがあります。

 

 

<追記>

神田明神の絵馬置き場がこんなことに。

いいのかなぁ。

いやいや、存外「よきかな、よきかな」とお喜びかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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