森瑤子さんのこと

森瑶子さんについて、書きたいと思う。

森瑶子、といっても、今の若い人の中には、彼女のことを知らない人もいるだろう。

森瑶子さんは、1978年にすばる文学賞を受賞してデビューし、993年に癌で没するまでのわずか15年の間に、百冊以上の著作を残した作家である。
彼女の作品は1979年と1982年には芥川賞の、1983年には上半期と下半期の2回、直木賞の候補になっている。

彼女の小説は、とてもおしゃれだった。
それまでの日本の小説の、じっとりとした文体とはまるで違う、翻訳調の乾いた文体で語られるのは、ファッショナブルな登場人物たちがさまざまに繰り広げる、大人の恋物語であることがほとんどだった。
まだ若かった私は、大人の世界を盗み見るようなドキドキ感とともに、彼女の本をむさぼり読んだものである。

六本木のバー。
葉山の別荘でのバーベキューパーティ。
軽井沢でのひと夏の恋。
海外の高級リゾート。
森瑶子の描き出す、ワンランク上のゴージャスな世界に、多くの女性が虜になった。

おりしも時代はバブルへと向かっていた。
ブランド物を身につけ、外車を乗り回し、高級レストランで食事をすることが幸せだと信じられていた時代。
時代の風に乗って、彼女の書く本は売れに売れた。
出版社が企画する文庫フェア、いわゆる「○○文庫の100冊」には、必ずといっていいほど彼女の本が何冊も入っていた。
イギリス人の夫との間に3人のハーフの娘をもち、カナダの島や与論島に別荘を持つという彼女の私生活のありようも、彼女の人気を後押しした。
私も、彼女の本に描かれた熱帯の高級リゾートのねっとりとした闇や、ファーストクラスラウンジのふかふかした絨毯などに熱い思いをはせ、彼女の愛読書であるというマルグリット・デュラスに没頭してみたりした。

「すれ違う男性が私を振り返らなくなったのに気がついて、私は小説を書き始めた」

と彼女はエッセイに書いている。
女性としての衰えと渇きが、自分を執筆活動に向かわせた、と。
すれ違う男性が振り向いてくれることなど皆無だった私には、その話は衝撃的だった。

しかし、本や雑誌で見る彼女の容貌は、正直いって、「すれ違う男性が振り返る」ほどのものではないように思われた。
けれども、実際に彼女に会って、そんな思いは吹き飛んだ。
生身の森瑶子は、光り輝くようなオーラを全身にまとっていて、すれ違う男性が皆振り返ったという話も、いともたやすく納得できたのである。

私が彼女に会ったのは、たった一度だ。

私が森瑶子さんの大ファンだと知っていた友人が、彼女の結婚式に招待していた森瑶子さんを、披露宴のあとハイヤーまで送っていくという役目を、私に振り当ててくれたのだ。

「ハ、ハイヤーまでお送りします」
慣れないハイヒールと極度の緊張に、ホテルのロビーをがしがしと歩いていく私を、森瑶子さんは柔らかな声で呼びとめた。
「ああ、ちょっと待ってくださる? 私、披露宴の会場に、傘を置いてきてしまったわ」
そう言って彼女はご主人を振り返り(イギリス人だというご主人は、本のイメージとはちょっと違う、細身の優男だった)、流れるような英語で、
「私、傘を忘れてきてしまったの。取ってきてくださる?」
と言った。
ご主人が戻ってくるのを待つ間、私は思い切って、隠し持っていた彼女の本を差し出した。
「サイン、お願いできませんか」
彼女はちょっと驚いたような顔をして、その本を手に取り、題名を確かめてから、うふふ、と笑った。
「あなたのような若いお嬢さんには、この本はまだ早すぎるんじゃないかしら」
そう言いながら彼女はきれいにマニキュアのほどこされた指をひらめかせて、サラサラとサインをしてくれた。
はい、と本を返しながら彼女は、
「素敵な女性になってね」
と言った。

それが、森瑶子さんと私との、最初で最後の出会いである。
当時私は24、5にはなっていて、身を焦がすような恋愛の経験もあったから、彼女の
「あなたにはまだ早い」
という言葉には正直、納得がいかなかった。
そういうことは年齢ではないだろう、と思ったのだ。

けれども、今回、この文章を書くために森瑶子さんの本を何冊か読み返してみて、彼女の言っていた意味がおぼろげながらわかったような気がした。

ファッショナブルな舞台装置の裏で、彼女が本当に訴え、叫んでいたことは、その華やかさとはかけはなれたものだった。
母親との葛藤。夫との摩擦。娘たちに対する、もっていき場のない感情。そして、自分自身との、血みどろの戦い。
彼女はそれを著作の中で繰り返し繰り返し吐き出し、叩きつけている。
ようやくつかみかけたデーモンを、しかし、するりと逃がしているような著作もある。
それをつかみとり、原稿用紙の上におさえこめていたならば、彼女は芥川賞も直木賞もたやすく手に入れていたことだろう。
けれども彼女はそれをしなかった。
いや、それをしてしまったら、もう小説など書けないことを、本能的に知っていたに違いないのだ。
彼女は流行作家としての命を長らえるために、あえてそれを避けた。彼女の豪華な生活のほとんどすべてが印税によってまかなわれていたのだから、それもいたしかたのないことだったのかもしれない。
そしてその結果、彼女は自らのうちに存在するデーモンと戦い続けなければならなかった。
彼女を死に追いやった癌という病は、その結果ではなかったか。

そんな彼女の葛藤を読み取ることなく、見た目だけのおしゃれさ、リッチさに心奪われ、憧れのまなざしを向けていた、あの頃の私。
森瑶子さんはきっと、そんな私を、
「まだ子ども」
だと思ったのだろう。

時は流れ、私は森瑶子さんが亡くなった年齢に近くなった。
振り返って数えてみると、彼女が作家として活動していた15年は、私の16歳から31歳にあたる。
仕事帰りの地下鉄の駅で、彼女の死を伝える夕刊の見出しを見たとき、私の長すぎた青春の終わりを実感したのを、今もはっきりと憶えている。
森瑶子さんが亡くなった2ヶ月後、私は夫と出会い、翌年結婚した。

結婚後の引っ越しや海外転勤などで、あんなにたくさん持っていた森瑶子さんの著作は、サインをもらった「嫉妬」だけを残して、すべて散逸してしまった。
今回、この文章を書くにあたって、書店で彼女の本を探したが、一冊も見つけることができなかった。あれだけの人気作家の本が、没後20年で何もなかったかのように皆無になっていたのだ。
近所の図書館にも、あったのは薄っぺらい文庫本1冊だけだった。

要するに彼女は、「流行作家」としてしか、人々に認識されていなかったのだ。
彼女は、彼女の存在そのものが読者の購買欲をそそる、いわゆる「スター」だった。彼女の持っているものを、よく行く店を、いつも遊んでいる友人の名前を知りたくて、皆、彼女の本を買っていたのだ。スター本人が死んでしまえば、当然のことながらその需要も消える。
「森瑶子」という名前も、数多くの著作も、その本当の意味をかえりみられることもなく、彼女の死とともに輝きを失い、消え去ってしまった。

森瑶子の生きたあの時代。
日本が富を有し、それを背景に確固たる発言権を世界に有していたあの時代。
あの時代こそが、私たち日本人が、
「本当の大人」
になることのできた、最大のチャンスではなかったのか。
「あなたには、まだ早すぎるんじゃないかしら」
という彼女の声とともに、そんな思いが胸から消えない。

(2013年2月7日)

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