454年(安康元年)

『日本書紀』現代語訳です。

原文は 岩波文庫版「日本書紀」 (坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注)に準拠しています。

・ふりがなはカッコ内
・通説に基づく解釈はカッコ内に青字 で示しました。

通説と異なる無理な解釈は行っておりませんので、既存の現代語訳と似通った表現になっている部分もあります。ご了承下さい。(異説・私見はその都度掲示します)

安康元年から開始したのは、允恭天皇紀までは年代操作が激しく、海外史料と年代が一致しないからです。安康以降は書紀の紀年が西暦とほぼ一致すると考えられますので、安康紀から始めることにしました。

穴穂天皇(あなほのすめらみこと)安康天皇

安康天皇は、雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)(允恭天皇)の第2子である。

一説には、第3子ともいう。 母は、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)(応神天皇の皇子)の娘、忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)とである。(允恭)42 年の春正月に、(允恭)天皇が崩御された。

『日本書紀』『古事記』ともに允恭天皇の第2子を境黒彦皇子としている。「一説に」とある第3子が正しいと思われる。

(前年)冬10月

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の死、あるいは流刑
天皇(允恭天皇)の葬礼が終わった。このとき、太子(ひつぎのみこ)(皇太子のこと。ただしこの時代に皇太子の称号はない)である木梨軽皇子が暴虐(あらくさかしまなるわざ)行って、婦女を姦淫した。
『日本書紀』允恭24年6月条に、木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係したとあることから、この記事はそれを指すものと思われる。『古事記』允恭記にも二人の密通の記事がある。
ただし、允恭天皇崩御は42年で、允恭24年に記されているこの事件は、その18年も前のことになる。その点からしても、允恭紀の紀年は信用できない
国人(ひと)は謗り、群臣(まへつきみたち)は(木梨軽皇子に)従おうとしなかった。みな穴穂皇子(安康)についた。
そこで太子(木梨軽皇子)は穴穂皇子を襲おうとして、密かに兵をつのった。穴穂皇子もまた、兵をおこして戦おうとした。 穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)はこのとき初めてつくられた。
そのとき太子は、群臣が従わず、百姓(おほみたから)(人民)も背き離れることを知って、宮を出て物部大前宿禰(もののべのおほまへのすくね)の家に隠 れた。 穴穂皇子はそれを聞き、(宿禰の家を)兵で包囲した。
大前宿禰は門に出て、穴穂皇子を迎えた。穴穂は歌を詠んで

  大前 小前宿禰が 金門蔭(かなとかげ) かく立ち寄らね 雨立ち止めむ
  (大前小前宿禰の家の前の金門の陰に、このようにみな立ち寄りなさい。雨宿りをしよう

大前宿禰は歌を返して、

  宮人の 足結(あゆひ)の小鈴 落ちにきと  宮人(みやひと)動(とよ)む 里人(さとびと)もゆめ
  (宮廷に仕える人の足結につける小鈴が落ちたと人々がどよめいている。里に下った人も気をつけ なさい
 
そして皇子に申し上げて言うには、「どうか太子を殺さないでください。私が何とか申し上げましょう」と言った。 こうして太子は大前宿禰の家で自殺した。一説には、伊予の国に流しまつったという。
『書紀』では太子(木梨軽皇子)は自殺するが、『古事記』では大前・小前宿禰の兄弟が太子を捕え、太子は伊余に流されている。

(前年)12月14日

穴穂皇子(安康天皇)即位
穴穂皇子が天皇の位についた。(安康天皇
皇后(きさき)(允恭皇后・忍坂大中姫のこと。穴穂皇子の母)を尊んで皇太后(おほきさき)とした。
都を石上(いそのかみ)(天理市市田付近か)に遷した。これを穴穂宮(あなほのみや)といった。

このときに、大泊瀬皇子(おほはつせのみこ)(のちの雄略天皇)は、瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)(反正天皇)の娘たちをめとろうとした。娘の名はわかっていない。このとき娘たちが言うには「あの方はいつも乱暴で怖い方です。にわかに機嫌が悪くなると、朝会った者でも夕方にはもう殺されてしまいます。夕方に会った者は、朝には殺されてしまう。私たちは容色も良くなく、気もききません。もし、振る舞いや言葉が少しでも王(大泊瀬皇子)の意にかなわなかったら、どうしてかわいがってもらえるでしょう。そんなわけで命令を承ることはできないのです」と申し上げた。ついに逃れて聞き入れることはなかった。

春2月1日

大草香皇子の謀殺
天皇(安康天皇)は大泊瀬皇子のために、大草香皇子(おほくさかのみこ)の妹、幡梭皇女(はたびのひめみこ)をめあわせようと考えた。
大草香皇子は仁徳天皇の子なので、安康の父・允恭の異母兄弟にあたる。大草香皇子と幡梭皇女の母は、日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)。ここに記される争いは、単なる皇子同士のいさかいではなく、日向系勢力との権力争いだった可能性も指摘されている。
そこで、(安康天皇は)坂本臣の祖・根使主(ねのおみ)を遣わして、大草香皇子に「願わくば幡梭皇女を大泊瀬皇子にめあわせよ」と言った。このとき大草香皇子が答えて言うには、「僕(やつかれ)は近頃重い病にかかり、治ることはないようです。たとえて言えば、荷物を船に乗せて潮が満ちるのを待つようなものです。けれども死ぬのは寿命というものです。惜しいことはありません。ただ、妹の幡梭皇女がみなしごになると思うと、心やすく死ぬことができません。今、陛下(きみ)(大泊瀬皇子のこと)が幡梭皇女の醜いのをお嫌いにならず、アサザ(水草の名。転じて、宮廷で働く女性のこと)の数のうちに入れて下さるならば、大変にありがたいことです。どうしてかたじけないお言葉を辞退いたしましょう。そこ で、私の真心を示すために、宝として大切にしていた押木珠縵(おしきのたまかづら)(一書に曰く、立縵 (たちかづら)という。または磐木縵(いはきのかづら)という)を捧げて、使いの根使主に預けて奉ります。願わくは、つまらなくて軽々しいものですけれども、お納めくださり、しるしとして下さいますよう に」と言った。
根使主は、この押木珠縵を見て、その美しさ見事さに幻惑され、自分のものにしてしまいたいと考えた。そこで、天皇に嘘をついて「大草香皇子は命令に従わず、私に向かって『同族であるといっても、どうして自分の妹を差し出すことができようか』と言っていました」とのべた。そして縵を自分のものにしてしまい、献上しなかった。
天皇は根使主の讒言を信じ、大いに怒って兵を起こして大草香皇子の家を囲み、殺してしまった。 このとき、難波吉師日香蚊(なにわのきしひかか)父子は、ともに大草香皇子に仕えていた。その主人が罪なくして死ななければならないことを悲しみ、父は皇子の首を抱き、二人の子はそれぞれ皇子の足を抱えて、 「わが君、罪なくして死にたまうこと、悲しきかな。我等父子三人、君が生きておられるときにお仕えし、 死ぬときに従わずにいたなら、これは臣下とはいえない」と言った。ためらうことなく自らの首をはね、皇子の屍のかたわらで死んだ。兵たちはみな、悲しみの涙を流した。
(安康天皇は)大草香皇子の妻だった中蒂姫(なかしひめ)(履中皇女)を召して妃とされた。また、幡梭皇女を召して大泊瀬皇子にめあわせた。
大草香皇子の妻を妃としたことからみて、この事件は安康の謀略だった可能性も。
この時中蒂姫を妃としたことが、のちに安康の運命を暗転させることとなる。
また、中蒂姫は、このとき大泊瀬皇子に嫁がせようと画策した幡梭皇女が履中天皇との間に生んだとされる娘なので、時間軸がまったく合っていない。ということは、幡梭皇女の婚姻と大草香皇子の謀殺は時間的な隔たりがあり、別々に起こった事件だった可能性が高い。
是歳、太歳甲午(きのえうま)

 

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