斎王宮殿跡

1月5日の読売新聞に、こんな記事が載っていました。

20190110斎王宮殿新聞記事

三重県明和町の斎宮跡で、飛鳥時代の建物跡が見つかったとのこと。

今までは奈良時代以降の建物跡しか発掘されていなかったのですが、今回はどうやらそれ以前の建物跡らしい。


伊勢の斎王といえば、奈良・平安朝には制度として確立していたのは確かなのですが、いつから始まった制度なのかはっきりとわかりません。
それが今回、飛鳥時代にさかのぼる建物跡がみつかったことで、『日本書紀』に記された大伯皇女や託基皇女、田形皇女(いずれも天武天皇の娘)たちが暮らした場所である可能性が出てきたわけです。



斎王制度がいつから始まったのかについては諸説あります。

『書紀』には第10代崇神天皇の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が、天照大神を大和の笠縫邑に祀ったとの記事があり、第11代垂仁天皇の時代に垂仁の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)が諸国をめぐったすえ「神風の伊勢の国」にたどりつき、そこに祀ったのが伊勢神宮の始まりとされています。

けれどもこれらはあくまでも「伝説」にすぎません。
私は個人的には、伊勢での祭祀は天武天皇以降のものと考えています。
『日本書紀』は、壬申の乱において天武天皇が

朝明郡(あさけのこほり)(三重県三重郡の一部)の迹太川(とほかわ)(朝明川)の辺(ほとり)で、天照大神(あまてらすおほみかみ)を望拝(たよせにをが)まれた(遥拝された)

と伝えています。
これが、伊勢祭祀の始まりだっただろうと思うのです。
それまではたぶん大和近辺(あるいは宮中)で行われていた祭祀を、伊勢という地に分離することにしたのではないでしょうか。
壬申の乱というある意味下克上を経て権力を手にした天武天皇の即位を周囲に納得させるためには、そうせざるを得ないほどの価値観の大転換が必要だったということでしょう。
そう考えれば、天武天皇の娘たちが3人も伊勢斎王になったのもうなずける話です。


今回発見された建物跡が本当に飛鳥時代のものだったとするなら、そこには天武の娘・大伯皇女が暮らしていたはずです。

ということは、謀反の志を秘めた大津皇子が、姉大伯に会いにきたのは、その場所だったことになります。

万葉集に残る大伯皇女の歌

我が背子を 大和へ遣(や)るとさ夜更けて 暁(あかつき)露に我が立ち濡れし
(わが弟を大和へ送り返さなければならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に濡れてしまった)

ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が一人越ゆらむ
(二人で歩を運んでも行き過ぎにくい秋の山なのに、その山を今頃君はどのようにしてただ一人で越えていることであろうか)

この二首は、まさにそのあたりで詠まれた歌ということになるでしょう。


またまた私見で恐縮ですが、このとき大津皇子が姉に会いに行ったのは、世間一般に言われているような「姉恋しさ」ではないと私は考えています。
謀反を起こそうとしている人が、その最中に「お姉さ~ん」などと郷愁にまみれた行動をとるでしょうか。
姉と弟の涙の別れ、みたいなことになってしまっていますが、それは謀反が失敗に終わったことから逆算した結果論にすぎません。
遠い道のりをはるばる伊勢まで行った大津の行動は、「謀反を起こすにあたって必要なこと」だったと考えるのが自然です。


ではなぜ、大伯との面会が必要だったのか。

それは推測するしかありません。
お得意の妄想を重ねあわせて推測させていただくとするなら、

大津は大伯を「次の天皇」として担ぎ出そうとしていたのではないか。

鸕野讃良(持統)の生んだ草壁皇子は、大津より一歳年長です。
大津がいかに資質で上回っているとしても、それは厳然とした事実です。
けれども、大津と大伯の母は鸕野讃良の姉で、天武の第一の妃でした。
額田王が生んだ十市皇女と身分低い母から生まれた高市皇子を除けば、大伯皇女は、「天武の正妻から生まれた最初の子」だったのです。

「母が生きてさえいたら」

と、大津は思ったに違いありません。
母・大田皇女が生きてさえいたら、天武の正妃として政治に関わっていただろうし、天武没後は即位していたかもしれないのです。
それが、大田が早逝したばかりに、大田の妹である鸕野讃良が正妃づらをして政治に口を出し続け、さらには即位までしようというのです。
大津にとってそれは許しがたいことだったに違いありません。
自らの母こそが天武の正妃、そして彼女が生んだ子どもたちこそが正当な皇位継承者であると大津は主張したかったはずですし、だからこそ鸕野讃良に敵対視され、死に追いやられたと考えることもできます。

母が生きていれば天皇の位を踏むはずだった。その母が亡いのなら、天武第一の子である姉・大伯に皇位継承権があるのではないか。少なくとも、本来は第2の妃にすぎない鸕野讃良よりは。

そう大津は考えたのではないか。大胆な仮説ですが、私はそう思うのです。

だからこそ大津は、遠路はるばる大伯に会いに行った。

けれども大伯はそれを受け入れることができなかった。
皇位に対する大津との温度差があったのかもしれません。
鸕野讃良の実績と度量に対する気後れもあったことでしょう。
大津がそれまで知ることのなかった、もっと根本的な何かがあったのかもしれません。

いずれにせよ、大伯は弟の要請を受け入れないまま、彼を帰すことになってしまった。
その後悔が、あの万葉集の哀切極まりない歌に現れているような、そんな気がしてなりません。



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斎宮跡は、伊勢神宮から少し離れた場所にあります。(近鉄電車で5駅)
斎王歴史博物館という立派な博物館が建っていて、なかなか興味深い展示がされています。
私が訪れたのはもう20年以上前ですが、その時受けた感銘が、のちに斎王をテーマとした小説を書くのに大いに役立つことになりました。
皆さんも、ぜひ一度訪れてみてください。

(2019年1月10日)

 

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