りんちゃん行方不明

あとから振り返ってみれば、嫌な予兆はいくつかあったのです。

昼間、銀行で振り込みをしようとしたら、銀行のシステムがダウンしていて、振り込みできませんでした。

そのあと、予約していた本を受け取ろうと、一駅離れた図書館へ歩いて行ったら、半年に一度の休館日でした。

ああ、今日はちょっとツイてないな、と思いました。


家に戻って、午後からの授業に出席するという娘に向かい、

「りんちゃん(わが家の愛猫)はどこ?」

と聞いたら、

「朝から会ってない」

とのこと。

でも、押し入れの奥で寝ていたり、とんでもない隙間に入って寝ていたりすることがよくあるりんちゃんのこと、その時はそう気にも留めませんでした。


けれど、どこで寝ていても私が

「りんちゃ~ん」

と呼べば、「呼んだ~?」と言いながら出てくるりんちゃんが、一向に姿を現さないのです。

何か、嫌な予感がしました。

家の中を探しつつ、一階のリビングの掃き出し窓のカーテンをめくってみたら、窓がほんの少し、そう、ちょうど猫が通れるくらいの幅で開いているではありませんか。

やられた、と思いました。



わが家のりんちゃんは保護猫です。

もともとはノラだったのを、知り合いの獣医さんがノラ猫の避妊手術をボランティアでしていて、手術後たまたま訪れた私に譲ってくれたのでした。
生後6か月、それくらいになってしまうと親ももう面倒はみないし、人間の匂いもついてしまっているから、一人で生きていかなければならない、でもこれから寒くなるし(11月でした)、なかなか厳しいかもしれませんね、という獣医さんの言葉に、思わず

「私、飼います」

と言ってしまったのでした。

元ノラらしく、抱っこは嫌がりましたが、甘えん坊で、弱虫で、人なつっこくて、本当にかわいい猫でした。

でも、やはり野生の血が騒ぐのでしょうか、窓から外をじっと見ていたり、網戸を開けてベランダに出て行ってしまったりすることがありました。

だから、気を付けていたのです。

窓を開けっぱなしにしない。
網戸にするときはロックする。

それなのに。

朝、掃き出し窓の雨戸を開けたとき、きちんと閉まっていなかったのです。雨戸を開けた私の責任です。

りんちゃんが出て行ったとおぼしき隙間に、レースのカーテンが揺れていました。



窓から顔を出し、名前を呼んでみました。

どこからも返事はありません。

庭に出て、隣家の塀が迫る家の周囲を、藪をかきわけ探し回ります。
けれど、どこにも姿は見えません。

二階の窓から呼んでみましたが、気配はまったくありません。

あわてて連絡した娘から、そういうときは落ち着いた声で名前を呼んだほうがいいこと、猫は3日間は近くにいるからあわてないほうがいいこと、などの情報が送られてきました。

落ち着け、と深呼吸して、近所の庭先や車の下などを見て回ります。

どこにもいません。

出て行った窓に面した庭に、いつも食べている餌を撒いてみました。
お腹がすけば戻ってくるかも、と思ったのです。

ところが、それが大失敗でした。

捜索から戻って庭を見ると、茶トラの猫がうずくまっています。
りんちゃん?と近づけば、様子が違う。
わが家のりんちゃんも、茶トラに胸が白い「茶トラ白エプロン」なのですが、その猫は、りんちゃんより二回りは大きい、全身茶トラの猫でした。
その猫が、庭先に撒いた餌をボリボリと食べているのです。

あわてて追い払いましたが、あの猫がここにいるせいで、りんちゃんが戻ってこられないのかもしれません。

撒いた餌を夢中で掃き集め、ゴミ箱へ。

 

こんな場合に備えて、りんちゃんにはマイクロチップを入れていました。
どこの誰が飼い主で、何歳の猫で、という情報が入ったマイクロチップが、首のあたりに埋め込んであるのです。(痛くないと獣医さんは言っていました)
こんな時にはどうすればいいのか、どこに連絡すればいいのか獣医さんに聞いてみようと電話をしたら、今日は木曜日で休診です。
頼みの綱が切られてしまったような気持ちです。


そうこうするうちに、短い冬の日はどんどん暮れていきます。


キャリーケースといつもの餌、それに懐中電灯を持ち、近所をくまなく見て回ります。
けれど、見ることができるのは、道に面した庭先だけ。
敷地内に入っていくわけにはいかないからです。
他人の庭を懐中電灯で照らせば、道行く人のとがめるような視線が背中に突き刺さります。


そうこうするうちに、日はとっぷりと暮れてしまいました。

食欲はまったくありませんでしたが、食事の支度をする音を聞けば戻ってくるかもしれないと、リビングの窓を開けたまま料理をします。
母と二人、出来上がった料理を食べようとしますが、まったく喉を通りません。

玄関のドアも開け放していたのですが、夜中はさすがに不用心なので、玄関先にキャリーケースを置き、中に餌を入れて、玄関ドアを閉めました。
もしかしたらキャリーケースの中に入って眠ってくれるかもしれない、と思ってのことです。



こういう猫が行方不明です、と近所や近くの獣医さんに配るチラシを作ろうと、りんちゃんの写真を探せば、パソコンの画面から次から次へと幸せだった頃の記憶があふれ出し、涙を止めることができません。

クッションの上で、こたつの中で、キャットタワーの上で、くつろぐりんちゃん。
私の膝の上で眠るりんちゃん。
歩くりんちゃん。お行儀よく座るりんちゃん。



りんちゃんがわが家にやってきてから5年。

あと10年は一緒にいられると思ってた。

それなのに、こんなに突然、お別れがやってくるなんて。

思えば、りんちゃんがやってきてからの5年間、わが家には幸せなことばかりありました。
すべての幸せを、りんちゃんが運んできてくれたような、そんな気がします。


旅行中の主人には、心配をかけまいと知らせないと決めていたけど、あまりの苦しさ、辛さ、悲しさに、思わず長々とメールを打ってしまいました。

すぐに返信。大変だ、と。
「でも、何とかなる気がする」とも。

のんきなことを、と思ったけれど、もしかしたらそうかも、とも思う。

そういえばその日の朝、メルマガでお世話になってるA先生のブログで、先生の愛猫「くうちゃん」が2日後に帰ってきた、という記事を読んだばかり。
そうだ、くうちゃんも帰ってきたんだ、と心をふるい立たせます。


猫は明け方に一番活動するとのことなので、朝早く起きて探しに行こう、と、家じゅうの窓を開け放ち、電気毛布のぬくもりを頼りに眠りにつきました。

寒い。

でも、りんちゃんはもっともっと寒いだろう。

どこで眠っているんだろう。

寒さに震えながら、お母さんの膝はどこ、と思ってはいないだろうか。

暖かかったお母さんのお膝。
やさしく撫でてくれたお父さんの手。
お皿に盛られたごはん。
きれいなお水。
暖かかいおこた。

みんな、みんな、どこ?
どこにいっちゃったの……?

夜明け前。

「りんちゃん?」

という母の声で、浅い眠りからさめました。

飛び起きると、階下に寝ている母が、階段の上にりんちゃんがいた、と言っています。
えっ、と言う私の足元をすりぬけて、りんちゃんがこたつのある部屋に飛び込んでいくのが見えました。
娘も起き出し、え、どこどこ、とこたつ布団をめくってみれば、中に光る赤い目。白い胸、きれいな茶トラ、まぎれもないりんちゃんです。

あわてて家じゅう走り回り、開け放っていた窓を閉めて回ります。
固く、固く、厳重に。
もう二度と出て行かないように。

戻ってこたつ布団をもう一度めくると、夢ではなかったのです、りんちゃんがそこにいます。

あああ、よかった、と突っ伏したときはじめて、パジャマの上に何も羽織っていないことに気がつきました。

こたつのスイッチを入れ、はねのけたおかげで冷えてしまった布団にもぐりこみながら、安堵が心に満ちていくのを感じました。
眠りに落ちる前、ちらと見た時計は、午前4時をさしていました。


朝、目が覚めると、りんちゃんはいつものように、にゃあ、と鳴きながら体を摺り寄せてきました。
この、ちいさな命がここにこうしてあるだけで、こんなに幸せになれる。
今まで当たり前だと思い、気がつきもしなかった幸せが、ここにある。
そんなことを思って、また涙がでてきました。




玄関前に出してあったキャリーケースを片付けようとしたら、中に置いてあった餌がきれいになくなっていました。

家に戻る前、りんちゃんが食べたのでしょうか。
いえ、そうではないようです。

キャリーケースの脇、玄関の壁のところに、マーキングとおぼしき跡がありました。
あのトラ猫かもしれません。

結構太っていたし、毛艶もよかったので、もしかしたら外飼いの猫なのかもしれませんが、あのトラ猫にも、寒さに震える夜がないように、と願うばかりです。




「捜索用チラシ」に使おうと思ったりんちゃんの写真。
今となっては笑い話ですが、選んだときは本当に辛かった……。

 20181221りんちゃん2 20181221りんちゃん1

(2018年12月21日)

 

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