ハイセイセイ子 山田道をゆく その2

さてさて、前回の続き。

桜井駅から出発した現代の裴世清、名付けてハイセイセイ子は、慣れない道にきょろきょろとあたりを見回しつつ、北へ延びる道を直進するのであった。

整備されたきれいな道路に、ふむふむ、とうなずくハイセイセイ子。

倭国もなかなかやりおるのう。
桜井市は税収が豊かと見える。
高額納税者がたんまりと住んでおるのかの?


などと、隋からの答礼使だけあって相変わらずの上から目線。


本物の裴世清一行は、迎えに来た倭国の役人に先導され、おごそかな隊列を組んで山田道を進んだんだろうけど、現代のハイセイセイ子に先導はいないので、スマホを片手に握りしめ、地図アプリを頼りにのそのそと歩みを進める。
生来の方向音痴もあって、スマホを縦にしたり横にしたりしながらの悪戦苦闘。

「地図が読めない女」とはあたいのことさっ!

以前一人で飛鳥を歩き回ったときにこれをやって、バッテリーの残量が少なくなってヒヤヒヤした覚えがあるので、今回はユーチューバー・ヒカキンさんお薦めのバッテリーを持参しておるのだよ。うふふ。これさえあれば一日中スマホつけっぱなしにしても大丈夫、とほくそえむセイ子。

地図アプリに従い、広い道を西へ曲がる。

と、その道添いにファミマの看板発見。
そしてそこには輝くトイレマークが。

あるやん。
倭国のファミマにもトイレが。
ここで朝ごはんにすればよかった。


と悔やんでも、あとのまつりのセイ子であった。

すごすごとトイレありのファミマの前を通過。

地図によれば、この道の南側は安倍文珠院らしい。
乙巳の変で蘇我入鹿が殺されてのち、孝徳天皇のもとで左大臣となった阿倍内麻呂(倉梯麻呂)の本拠だったとされる地ですな。
ここには去年、両槻会事務局の皆さんに連れてきていただきました。
磐余を歩き回ってから行ったんですよね。なつかし~!
と、思い出にひたるセイ子。

で、このまま直進すると磐余に行ってしまうので、左に曲がる。
そう、その道こそ、本物の裴世清も通った(はずの?)山田道。

道の右側はうっそうとした緑。
おお、この向こう側が去年行った「青木廃寺」だな。

「この青木廃寺の軒平瓦の中には長屋王邸のものと同笵例があり、創建には高市皇子や長屋王との関連性が注目されています……」って事務局長から教わったんだい! エッヘン! 
(と、瓦もなにもわからないくせに胸を張るセイ子)


まあ、そんなこんなを思い起こしながら、山田道を進む。

それにしても現代の山田道は車がひっきりなしに行き交う立派な道路。
車は行き交うが、人は誰も歩いていない。
そりゃそうだ、土曜日とはいえ、まだ朝の7時半。
「こんな朝っぱらからなんでオバサンが一人で歩いてるんだ」という車の中からの視線を受けつつ、一人山田道を行く孤独なセイ子である。

安倍幼稚園、安倍小学校、などなど、倉梯麻呂の匂いがたちこめる道を延々と進む。

道はなんだか上り坂。
ええい、山田、山田はまだかっ、とイラつきだすセイ子。
蘇我倉山田石川麻呂、そちの本拠はまだなのかっ!


……ちなみに、蘇我倉山田石川麻呂は、先の阿倍倉梯麻呂とともに孝徳朝の右大臣に任命された人物ですが、安倍と山田は結構近いのね。
バス停で3つか4つくらい?しか離れてない。
昔の感覚でいったら、もうほとんど「お隣さん」だったんじゃないかと。

それぞれの娘の年齢から計算すると(石川麻呂:天智妃の遠智娘、倉梯麻呂:孝徳妃の小足媛がそれぞれ生んだ子どもの年齢から逆算)、大化改新のとき(645年)、二人はほぼ同年配の40代後半から50代だったと推測されます。
ということは、裴世清が隋からやってきたとき(608年)、彼らは10歳から十代半ばだったというわけですな。
(梅前算出なので確実性に少々難あり。禁転載)

もしかしたら二人は、隋からやってきた一行の賑々しい行列を、二人そろって見たかもしれない。
もちろん二人とも大豪族の子弟なわけだから、一般人とは違う場所からだったかもしれないけれど、小学生(?)男子だったにせよニキビ面の高校生(?)だったにせよ、すでに生まれていたからには彼ら一行を見たであろうことだけはほぼ確実なわけで、それを見て結構な感銘を受けたのは間違いないところだろう。

おい見ろよ倉梯麻呂、あれが隋の答礼使だぜ。

マジか。なんかずいぶんと偉そうだな。

悔しいなー。いつかはあの国追い抜いてやろうぜ。

そうだそうだ! いっちょやったろうぜ、石川麻呂!

なんてね。

この二人、大化4年に施行された新しい冠位制に反発し、揃って「古い冠をかぶった」と『日本書紀』に記されています。
それは「左右大臣が新しい政治に反発した」、つまり旧勢力の揺り戻しみたいに言われているけれど、存外、仲良しの二人が「中大兄とかにでかい顔されてんの許せなくね?」「だよねー」みたいなノリで、すました顔して古い冠をかぶって出仕したんじゃないかと。

阿倍倉梯麻呂が没してすぐに蘇我倉山田石川麻呂が討たれているところからしても、一方の車輪を失って走れなくなった車のような、二人の結束の強さがうかがえます。


などと思いをはせつつ歩いていると、ついに到着。


山田寺。

 20180526山田寺1

 20180526山田寺2

ひょえ~。
何にもない。これが「飛鳥あるある」。
発掘が終わって埋め戻されたんですね。
想像力を駆使して巨大伽藍を野原に建ち上げる。

 20180526山田寺4

 20180526山田寺6

 
ちなみに、裴世清が山田道を通ったとき、山田寺はまだ建立されていませんでした。

 20180526山田寺3

山田寺の建立が始まったのは、『上宮聖徳法王帝説』によれば舒明13年(641)とされています。
ここには蘇我倉山田石川麻呂の邸宅があり、山田寺はそれに付随する寺院として建立されました。

なので、山田寺建立は、裴世清が山田道を通って飛鳥に入京してのち、30年以上たってから始まったことになります。


裴世清が山田道を通ったとき、ここにはすでに石川麻呂が暮らす邸宅があったのでしょうか。
石川麻呂の父親は蘇我蝦夷の弟である倉麻呂とされていますが、石川麻呂の代になってから名に「山田」が付されているところからみて、父親の倉麻呂の代にはまだここに邸宅はなかったのかもしれません。

うーん。
そうなると石川麻呂と倉梯麻呂が「マブダチ」だったというさっきの話が怪しくなるわけで。

ま、そういう可能性もなくはない、ってことにしておきましょう。



左大臣・阿倍倉梯麻呂が没してからわずか8日後、右大臣だった蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いをかけられ、妻子ら8人とともに、ここ山田寺で自害して果てたとされています。
それは、裴世清が山田道を通ってから41年後のことでした。


ニキビ面を紅潮させて吾の行列を見上げていたあの高校生(?)が、そんな過酷な人生の結末を迎えたとはのう……。

と、裴世清に成り代わり、遠く思いを馳せるセイ子。


彼の夢も何もかも、今はすべて失われ、緑の地が広がるばかり。

ミウチであったはずの蘇我入鹿を裏切ってまで、彼が手にしたかったものとは、一体何だったんだろう。


……ちょっとしんみりしちゃったセイ子であった。


次回へ続く。




【追記】

「地図をつけんかい、地図を!」との政治的圧力(?)が各所からかかり、涙目になってグーグルマップと格闘いたしましたが、

やっぱ無理でした。

セイ子に地図は無理。
あきらめて。

てへぺろ~。



【追記 その2】

んふふふ。

地図は無理~♪ と言ってみたところ、

なんと!

事務局長からコメントが!


地図を作って下さいました!

コメントのリンクからは飛べないみたいなので、スクリーンショットしたものを貼り付けます。
拡大はできませんのでご了承ください。

ハイセイセイ子

「両槻会事務局長作成・ハイセイセイ子推定ウォーキングコース」


ううう。
ありがたや。

緑色のラインがセイ子の歩いたコースです。


昨日は猛暑の中定例会が行われたというのに、
こんなお手数おかけしてスミマセン、事務局長っ!

本当に本当にありがとうございました。




【追記 その3】

またまた追記。

ってことはまたまた間違いがあったってことです。

一番最初。

北へ延びる道を直進するのであった」

ダメダメ! 何処へ行く!

とツッコまれたセイ子。

……「」でした。

あああ。
ホント、方向音痴。

地図を見るのも書くのも無理。
迷子にならずに生きていくだけで精一杯のセイ子であった。

(2018年7月21日)

 

コメント