武烈天皇は実在したか

今回のお題は 第25代・武烈天皇でゴザイマス。

武烈天皇についてちょっとおさらいしておきますと、

15応神
 ↓
16仁徳
 ↓
17履中→18反正→19允恭
 │        ↓
市辺押羽    20安康→21雄略
 │          ↓
23顕宗→24仁賢    22清寧
     ↓
    25武烈

ちょっとわかりづらい?
縦が親子で、横が兄弟ね。

雄略天皇が21代で、前回の「倭の五王」は15代から21代くらい。
だいたいこの中に「倭の五王」が含まれていると思われます。

なので、今回の

武烈天皇

は、倭の五王の時代から二世代ほどあとの人、ってことになりますね。


で、この武烈天皇、どんな人だったかといいますと、日本書紀によれば、それはそれはすさまじい。
何がすさまじいかって、

武烈2年9月 妊婦の腹を裂いて中身を見た。
武烈3年10月 人の生爪を剥いで芋を掘らせた。
武烈4年4月 人を木に登らせ、その木を切り倒して殺した。
武烈5年6月 人を樋に入れ、流れてきたところを刺し殺した。
武烈7年2月 人を木に登らせ、弓で射殺した。
武烈8年3月 女たちの前で馬に交尾させ、陰がうるおっている女を殺した。

と、まあ、さんざんな暴虐っぷり。
何やねんコイツ、こんなん大王だったらマズイやろ!ってな世論(?)を形成し、次の継体天皇(出自にかなり問題あり)の即位を正当化するために書紀がでっちあげたという説もあります。
これらの残虐っぷりは『古事記』には記載されていないので、その説もないとはいえない。


それでは彼は本当はどういう人だったの?ってことで、その実体を追おうとすると、これがまた謎に包まれておりまして。
年齢からして定かではないのです。
岩波文庫版『日本書紀』校注によれば、彼の没年齢は

扶桑略記・水鏡などには18歳
帝王編年記・皇代記などには57歳
天書に61歳
など諸説ある。

と書かれています。
18歳、57歳、61歳、って、アンタ、

ばらつきすぎやろ!

親子というより孫と祖父くらい離れてるやん!
とても同一人物の年齢を伝えたものとは思えない。

で、ここで登場
必殺・年齢考証。

彼のお父さん(仁賢天皇)は、498年に50歳(51歳とも)で没しております。
武烈没時(506年)に武烈が61歳だったとすると、498年時点で武烈は53歳だったことになり、お父さんより年上になってしまいます。
没時57歳だったとしても、498年には49歳で、お父さんと二歳しか違わないことになる。
そんなんありえまへんて。

さらに、武烈の「姉」である手白香皇女が継体天皇の妃となって欽明天皇を生んだのが武烈崩御から2~3年後のことと推測されるので(欽明の年齢から算出)、当時の女性がぎりぎり子どもを生める年齢が35歳だったとしても、武烈没時に手白香は32~33歳だったことになり、「姉」であるからには武烈は少なくともその年齢以下だったことは間違いありません。
武烈には手白香の下にさらに二人の姉がいたと記録されているので、武烈と手白香の年齢差は少なく見積もっても3~4歳はあったはず。
となると、手白香が高年齢出産をしたとして、どんなに年齢を高く見積もっても、武烈は30歳にならずして没したものと考えられます。

さらに、武烈の妃には「春日娘子」という、出自不明の女性一人しか記録されておらず、二人の間には子もありません。武烈が長生きしたのなら、他に何人もの妃を持っていてもおかしくないはずです。
『書紀』が描くように「極悪非道の天皇」だったとするならなおさらのこと、酒池肉林で女は100人、てなことになってたはず。
それが「妃は一人」。それも、誰の娘だかも記録されていない、地味な(イメージ)女性一人だけ。

そんなこんなを総合しますと、

武烈は崩御時18歳だった

という『扶桑略記』『水鏡』の記載が、がぜん真実味を帯びてきます。



けれども、「崩御時18歳」を採用すると、困った問題が発生するのですね、これが。
8年在位したという武烈の年齢を没年齢から逆算すると、なんと

10歳で即位した

ということになってしまうのです。

10歳。
いくらなんでも若すぎでしょ。
現代でいったら小学校4年。
いや、数えだから小学3年生だったかも。

まあ、彼の残虐な行為の数々は、「お子様の残酷な夢想の具現」ととらえることもできるのかもしれないけれど。


ここで問題になるのは、当時の大王擁立の方法です。

当時、大王の擁立は、「群臣たちの合議」によりなされていたと推測されます。
つまり、群臣たちの推挙があって初めて、大王として立つことが許されたらしいのです。

時代は下りますが、推古天皇が崩御したあと、蘇我蝦夷が群臣たちを集めて意見を統一しようとこころみましたが、ついに統一できず、山背大兄王を推してやまなかった境部臣摩理勢を討伐するという強硬手段に訴えることにより、舒明即位を実現させるという事件が起こりました。王権を自在に操ったというイメージの強い蘇我ですが、彼らをもってしても「重臣たちの賛成」なくば大王擁立は不可能だったということがこの事件から見てとれます。
同じように、武烈即位当時も、即位にあたっては重臣たちの推挙が不可欠だったと思われます。そしてそれを得るためには、本人の資質も含め、王としての実績や統率力も必要とされたのです。
10歳の少年が、それらを備えていたとは考えられません。
のちの時代の「飾り物の天皇」ならばいざ知らず、この時代、まだ10歳の少年を、クニを統率し、いざという時には武器をとって戦うべき「王」として重臣たちが奉戴したとはとても思えないのです。

だから武烈は実在しなかった、とは言いません。

年若い彼を大王として担ぎ出し、手ひどい目に遭った。『書紀』は、その「失敗」を伝えようとした可能性もあるからです。

事実、仁賢没後、武烈以外に皇位を継ぐべき皇子はいませんでした。
先代の顕宗には子がなく、仁賢にも男皇子は彼一人しかいなかったのです。
武烈が死んだあと、大伴連金村が

「方(まさ)に今絶えて継嗣(みつぎ)無し」

と訴えたのは、そのあらわれと申せましょう。
年若くても何でもいい、とにかく大王の座につけよう、と10歳の少年を大王の位につける道を選んだとも考えられます。

ところが彼は年若くして没してしまった。
重臣たちの困り果てる顔が目に浮かぶようです。
越の国にいた男大迹王を「応神5世の孫」としてかつぎ出し、継体天皇として即位させたのは、そうした事態を打開する「ウルトラC」だったと思われます。


ちょいと長くなっちゃったので、また次回、武烈天皇について述べたいと思います。


(2018年2月23日)

 

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