倭王・武は雄略か

先日ご紹介した 河内春人先生著「倭の五王」は、

「倭王・武をワカタケル大王(雄略天皇)と言い切ることはできない」

という、衝撃の結末であった。

『宋書』に記された讚・珍・済・興・武、いわゆる「倭の五王」を、それぞれどの天皇にあてはめるかは各論あって、現在代表的な説とされているのは、

讚=仁徳天皇
珍=反正天皇
済=允恭天皇
興=安康天皇
武=雄略天皇

である。
讚を応神、あるいは履中とする説もある。

では残り4人の王はこれで確定かというとそうではなくて、この比定は中国史書に記されている各王の血縁関係や、名前の読みから導き出されたもので、結構あやふや、不明瞭なものが多く、決定打とはなっていない。

その中で唯一、「これは確定でしょう」とされていたのが

武=雄略天皇

だったんである。

『日本書紀』に記された雄略天皇の名前は「大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけてんのう)」、つまり大泊瀬に宮を構えた「幼武(わかたけ)」という名の王という意味で、武という文字を使っているからには、この大王こそ「倭王・武」である!
これだけは間違いない!

というのが、「倭の五王」研究の大前提であり、他の四人の王の名を探る出発点となっていたのだ。

ところが。

「武」の字を訓読みで「たける」と読ませるようになったのは、これよりあとの時代になってからの可能性が高い、と河内先生はいうのだ。
(訓読みの最古の事例は6世紀後半とされる鉄剣銘だそうだ)
仮に、倭の五王の時代(5世紀)に、訓読みが成立していたとしても、「たける」にあたる漢字は「建」のほうが古いらしい。
(実際、『古事記』では雄略の名を「若建」と表記している)

ということは、「武」を「タケル」と読むようになったのは、比較的新しい時代のことで、5世紀当時「獲加多居齒」と表記(稲荷山古墳出土鉄剣銘)されていた「ワカタケル」王が、対外的に名を名乗る場合、「タケル」の意味をもって「武」の文字を採用したとは考えづらい。
一音一字で漢字を書き表していた時代に、「タケル」を「武」と読む訓が成立していたとは考えがたい、と河内先生はおっしゃるのだ。


……これは困った。

先ほども書いたように、「武=雄略」というのは、倭の五王比定問題にあっては「これだけは絶対」のものとして、すべての基点、アンカーとなっていた。
極端な話、「武=雄略」から逆算して、他の四王の比定が行われてきたといっても過言ではない。
それが、

もしかしてそこも違うかも?

ってな話になっちゃったんである。

んじゃ~何を信じればいいのさ。

と、やさぐれてしまいそうになる。


……でも、私が考えるに、「倭の五王」問題の本質は、

なんでそんなにわかりづらいんだい?

ってことだ。
これはもう、

わざわざわかりづらくしてある

としか思えない。
どういうことかというと。


『書紀』の成立は、ご存知の通り720年。
元正天皇の時代である。
藤原不比等らが中心となって養老律令が成った頃のことだ。
倭の五王の時代からいうと、300年たっている。
その頃には、遣唐使がバンバン派遣されていて、中国の情報も多く流入してきていた。(上田雄「遣唐使全航海」によれば、718年までに遣隋使が少なくとも3回、遣唐使が7回帰国している)
倭の五王が登場する『宋書』は、6世紀前半の梁の時代に成立したとされているが、大部分は宋滅亡(478)直後に編纂が終わっていたという。遣唐使がそれを目にしていた可能性は高い。
中国の史書に日本(倭国)がどのように登場するかについて知った遣唐使たちは、その知識を持ち帰ったに違いないのだ。

『日本書紀』では、そうした「中国史料に登場する倭国」と日本の歴史をリンクさせようとした形跡が認められる。
『日本書紀』の年代が改ざんされていることは疑いないが、それを行うことにより、架空の人物とされる「神功皇后」の年代を、卑弥呼の生きた年代に近づけようとしているのだ。
逆に言えば、8世紀当時の日本においては、中国の史書に卑弥呼という女王が登場することが知られており、その年代に合わせて神功皇后という架空のヒロインを創出した可能性すらある。

当然、彼らは倭の五王についても承知していたはずだ。
けれども、倭の五王が歴代天皇の誰に当るのか、比定することは難しい。
中国に使いを送ったほどに強大な王が存在したというのに、日本の史書である『日本書紀』からは、それが誰なのか読み取ることができないのだ。

『日本書紀』は、わざと倭の五王の比定を困難にしている。

その原因は明白だ。

倭の五王は中国から叙爵されていた。
中国からお墨付きをもらうことによって、国内、あるいは韓半島において優位な立場に立とうとしたのだ。
つまり、

倭の五王は中国から冊封されていた

ということになる。

『書紀』はそれを隠そうとした。

冊封体制下に置かれまいとする姿勢は、日本が古くから貫いてきたものだった。
舒明天皇の時代、唐の答礼使・高表仁が「王子と礼を争った」のも、その件だったと思われる。
以来、中国の冊封下に置かれまいとすることは、当時の日本にとって至上命題であり、矜持であったはずだ。

だから、隠したかったのだ。
「倭の五王」が中国に冊封された過去を。

万世一系の王朝が遠い過去からこの国を統治していたと主張するために、大幅な年代の移植を行った『日本書紀』だが、倭の五王に比定される天皇(大王)が登場するあたりで、十干十二支二巡分(120年)の改ざんを行っている。応神天皇8年(『書紀』から算出した年では277年)の百済王子直支の来朝は、『三国史記』によれば阿華王6年のことで、それは397年にあたる。397-277=120で、応神天皇の時代にすでに十干十二支二巡分ずらされていることがわかる。
つまり、『書紀』は、倭の五王の時代に年代の改ざんを積極的に組み入れることによって、その時代を「わからなく」させているのだ。
『書紀』を頼りに倭の五王が誰なのかを割り出そうとしても無理なのは明白だ。

唯一の頼みの綱である史書がそれを「隠そう」としているのだから、そこから真実を読み取ることは不可能に近い。

よって。。。。

「倭の五王」は、5世紀にこの列島に存在した王のうちの「誰か」であって、それが「誰か」を確定することはできない。

という結論に落ち着くのであった。

あ~あ。(ため息)


追えば追うほど霧が深くなっていく。

それが古代史。 だから楽しいとも言えるんだけど。。。

(2018年2月16日)

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