聖徳太子の愛犬

 聖徳太子に愛犬がいたという説がある。

 奈良県王寺町にある達磨寺境内には、江戸時代に造られたというその犬の石像があり、有形民俗文化財に指定されている。


  雪丸石像
  (画像提供:両槻会)

 石像の台座部分は幅37㎝、最大奥行57㎝、最大高50㎝。
 犬の本体部分は最大幅34㎝、最大奥行57㎝、最大高50㎝。
 花崗岩の一石から彫り出された、方形の台座の上に乗った犬形の像である。
  (文化遺産オンラインより)

 達磨寺周辺には、その石像が「正月に鳴くと豊作になる」という言い伝えが残っているらしい。



 聖徳太子の住居である斑鳩からも陵墓からも離れている「達磨寺」になぜ、聖徳太子の愛犬に関する言い伝えが残り、石像まで建てられることになったかというと、達磨寺が建つ地が、『日本書紀』に書かれた「片岡飢人伝説」の場所とされているからである。


 「片岡飢人伝説」とは、以下のような伝説である。少々長くなるが引用しよう。

 『日本書紀』では、推古21年12月のこととされている。
聖徳太子(厩戸皇子)が、片岡の地を通りかかったとき、飢えた人に出会った。太子は食物を彼に与え、着ていた衣を彼にかけてやった。
 翌日、太子が使いを出して彼の様子を見に行かせると、彼はもう死んでいた。太子は大いに悲しみ、その場所に彼を埋葬させた。
 数日後、その墓を見に行ったところ、棺の中から屍がなくなっており、衣だけがたたんで棺の上に乗せてあった。それを聞いた太子は、何事もなかったかのようにその衣を身につけた。人々は「聖が聖を知るということは本当のことなのだ」と言って畏れかしこまった。

 以上が『日本書紀』に残された「片岡飢人伝説」である。『書紀』にはこの記述しかないが、やがて、聖徳太子信仰が広まっていくにつれ、その「飢えた人」が「達磨大師」だったという伝承が発生したのである。


 達磨大師とは、5世紀~6世紀の中国に生きたとされる僧で、9年に及ぶ坐禅修行により手足が壊死したという伝説が残っており、そのことからご存知「ダルマ」のモデルになった人物である。インド人だったという説があり、絵画や像、さらには「ダルマ」に残る豊かな顎鬚や胸毛は、そうした特徴を表しているという。一説にはペルシャ人だったとも言われている。
 ちなみにこの「ダルマ」という言葉は、サンスクリット語で「法」を表す言葉だという。

 その達磨大師の生まれ変わりが、「片岡飢人伝説」に残る飢人だったというのである。飢人を葬った墓の上に建てられたとされる達磨寺の本堂の下には、実際に墳墓が存在し、達磨寺3号墳と呼ばれている。



 だが、『日本書紀』には「片岡」としか記されていない飢人の墓が、なぜ現在の達磨寺の地に定められたのだろうか。

 これには、平安時代中頃に成立したとされる『聖徳太子伝暦』が、深く関わっているとみられている。
 『伝暦』には、聖徳太子が飢人と出会ったのは、自らの寿陵(生前に造る墓)を視察した帰りであるという記述がある。
そこで、太子の住まいである斑鳩から、墓所(大阪府南河内郡太子町)に向かうルート上に存在した円墳が、「片岡飢人伝説」にある飢人の墓と考えられるようになったのであろう。そしてそれが達磨大師の生まれ変わりとの伝承と結びつき、その上に達磨寺が建立されたものと思われる。

 また、『伝暦』には、「飢人はもしくは達磨か」と記されている。そのことから、『伝暦』が書かれた頃にはすでに、聖徳太子が片岡で出会った飢人は達磨大師の生まれ変わりとの信仰が発生しており、さらに、聖徳太子は前世で達磨と日本で仏法を広めようと約束したとされる慧思禅師であるとの解釈もすでになされていたものと考えられる。
 従って達磨寺は、聖徳太子信仰の高まりの中で建立された寺院であるということは間違いないところであろう。



 「聖徳太子の愛犬」伝承は、この達磨寺の記録の中に登場する。

 明治5年(1872)ごろに書き写されたとされる「達磨寺略記」の中に、聖徳太子の愛犬について、以下の言い伝えが記録されている。

・本堂の丑寅の方角(北東)に「犬塚」と呼ばれる犬の墓があり、その犬は聖徳太子が飼っていた雪丸という犬である。
・その犬は人の言葉が理解でき、お経を読むことができた。
・死期を悟ったその犬が、自分が死んだら、自分は達磨大師を守りたいので、大師の墓の丑寅の方向に自分を葬ってくれと遺言した。


 実際に、本堂の東北の方角には達磨寺1号墳と呼ばれる墳墓があり、そこが「こまつか」(狛塚)と呼ばれたという伝承も残っている。

 達磨寺一号墳
 達磨寺一号墳 (画像提供:両槻会)


 また、達磨寺略記には記載されていないが、達磨寺には、太子が石工に命じてその犬の像を造らせたという話も伝わっているらしい。

 先に紹介した、有形民俗文化財に指定された犬の石像は、江戸時代中頃の作と考えられているそうなので、聖徳太子が造らせた犬の像そのものではないと考えられるが、現在も残る石像についてのものとみられる記述が、寛政3年(1791)に刊行された『大和名所図会』に登場する。

 『大和名所図会』には、本堂の東北の方角に、犬のような石造物が描かれている。「こまつか」の文字が見えることから、これは現在残る犬の石像と見て間違いないだろう。

 さらに、1826年に刊行されたとされる『道中日記』にも、達磨寺についての詳述の中に、「太子が愛する雪丸という犬の石がある」と書かれているという。



 つまり、真実はどうあれ、

・「聖徳太子には『雪丸』という名の愛犬」がおり、その犬は
・「人の言葉を理解し、お経を唱え」ることができ、
・「死ぬにあたって達磨大師の墓の北東に葬ってくれと遺言した」

という伝承が、聖徳太子信仰の広まりとともに広く信じられていたということは間違いないところであろう。
 犬をかわいがっていたという伝承は、聖徳太子の「慈悲深さ」を強調するためにも役立ったと思われる。



 さて、その「聖徳太子の愛犬・雪丸」は、どのような犬だったのだろうか。

 江戸時代中期に造られたとされる石像からは色は判断できないが、古文書に残る「雪丸」あるいは「白雪丸」という名前から、白い犬だったようだ。

 石像の風貌からも、ころりとした体形の、可愛らしい日本犬だったように思われる。
 


 ところが、先日とある場所で、私は奇跡的にその「雪丸」の撮影に成功した。



 石像ではない。実際に「生きている」雪丸である。


 せっかくなのでここでご披露したいと思う。



 私が撮影した貴重な写真なので、転用転載の際は、私に許可を取っていただきたい。






 「生きた雪丸」画像


  ↓


  こちら


  ↓


  こちら


  ↓







 雪丸アップ

  「雪丸くん」


  (王寺町公式マスコットキャラクター)



 雪丸背中

 「雪丸くんの後ろ姿」



  最近は空も飛ぶよ!

雪丸ドローン

 「雪丸ドローン」



せんとくんとツーショット

「あのお方と貴重なツーショット」



雪丸マスコット

 「持ち運び便利なマスコットもあるよ!」



 雪丸ステッカー

 「ステッカーもね!」




……以上、「聖徳太子の愛犬・雪丸」についての考察を終えたい。





<追記>

王寺町教育委員会 岡島永昌先生から、さまざまなご教示をいただきました。
この場を借りて御礼申し上げます。

「王寺町おもしろ歴史講座」大変ためになりました。
「雪丸ライブ」も楽しませていただきました。

「ワン(和)をもって貴しとなす」……


<追記2>
両槻会事務局より「雪丸石像」「達磨寺一号墳」の画像をご提供いただきました。
ありがとうございました。

(2017年11月5日)

 

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