継体以前の宮をめぐる その2

前回は、雄略と継体という「存在感ありあり」な天皇に挟まれた、

清寧、顕宗、仁賢、武烈

の4人の天皇の影が妙に「薄い」ってお話をいたしました。

真偽はともかく、もしかしてその時代、大王が何人もいる「並列」状態だったんじゃないか? ってな説もあるくらい。

ま、『書紀』のいうように「直列=万世一系」だったにせよ、「並列」だったにせよ、彼ら4人の天皇が実在したことだけは、ほぼ間違いのないことと思われます。

だったら、彼らの生きた場所を見に行ってみようではありませんか!

というわけで、今回は「実地探査編」。


10月の初旬、行ってきました。

彼ら4人の宮を全部回りたい!

と思っていたんだけれど、最後の「武烈」だけは、ちょいと離れているので、どうしても今回のルートに組み込むことができませんでした。
次回は必ず。


で、今回訪ねたのは、

清寧天皇 磐余甕栗宮(橿原市・御厨子神社が伝承地)
顕宗天皇 近飛鳥八釣宮(明日香村・弘計皇子神社が伝承地)
仁賢天皇 石上広高宮(天理市・平尾山稲荷神社が伝承地)


の、3つの宮跡地。


まずご紹介するのは、清寧天皇の磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)

清寧天皇は、ワカタケル大王として知られる雄略天皇の子です。

清寧は「生まれながらに白髪」だったと伝えられており、先天的に色素が欠乏するアルビノだったとする説もあります。白髪で生まれた清寧天皇を見て、雄略天皇は何か神秘的なものを感じ、後継者としたともいわれています。

清寧天皇の母は、葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の娘です。
この葛城円は、雄略の前の天皇である安康天皇が、前妻の子の眉輪王に殺害されたとき、関与を疑われて雄略によって攻め滅ぼされています。
つまり雄略は、自分の妃の父親を殺してしまったというわけですね。
そんな両親の間に生まれた清寧は、かなり複雑な思いを胸に抱きつつ成長したと思われます。

雄略崩御後、異母兄弟である星川皇子が反乱を起こします。これは星川皇子の母・稚姫の故郷である吉備地方の反乱と見ることもできますが、直接の発端は、もとは吉備の豪族の妻だった稚姫を、雄略が無理矢理妃としたことによる稚姫の「恨み」でした。
雄略の、傍若無人な行いの数々が、彼の没後になってからも倭国に暗い影を落とし続けたのです。

星川皇子の反乱は、大伴連室屋によって鎮められ、清寧が即位します。
複雑な生まれに加え、異母兄弟を反乱で失っての即位です。彼の心中はいかばかりだったでしょう。
『書紀』によれば、清寧には妃もなかったようです。また、彼の治世には、これといった業績は記録されていません。

その、ちょっと薄幸そうな「清寧天皇」が暮らしたのは、神功皇后や履中天皇も宮を置いたとされる「磐余」の地でした。
初代天皇とされる神武天皇の本名が「イワレヒコ」であることからもわかるように、磐余はなかなかに「格の高い」土地です。(古代の田園調布?的な?)



  御厨子神社2
  甕栗宮伝承地・御厨子(みづし)神社。
  (事務局長、入っちゃってます。無断で掲載)


  御厨子神社1 
  周囲よりちょっと小高い丘のようになっています。


  御厨子神社4
  境内には不思議な石が。

「月の輪石」と言われているそうです。
長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9m。
中央部の亀裂は40㎝あるそうです。(事務局長作成資料による)
いつごろからここに置かれていたのかはわかりません。用途も不明です。
甕栗宮があった時代からここにあったとしたら面白いのですけれど。


この御厨子神社の横には、池が広がっていたようです。
今は田んぼになっていますが、発掘調査の結果、6世紀後半以前とされる堤跡が確認され、万葉集などに歌われた「磐余池」候補地のひとつとされています。
いつ頃からこの池があったかどうかわかりませんが、低地であることから、清寧天皇の時代からここが池だった可能性もあります。

東側に広大な池、南西に香具山を望み、清寧天皇はここで何を思って暮らしたのでしょうか。



次は顕宗天皇の近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)

明日香村八釣にある、弘計皇子神社がその伝承地とされています。
「弘計(をけ)皇子」とは、顕宗天皇の名前です。名前そのものが神社の名前になっているのも珍しい感じがします。

顕宗天皇は、次に即位する仁賢天皇の弟です。この兄弟は、雄略の従兄弟で、雄略によって謀殺された市辺押羽皇子の子です。
皇位継承の有力なライバルとされていた市辺押羽皇子を雄略が殺害したとき、まだ幼かった兄弟は、お付きの者にかくまわれ、播磨へと逃げのびます。彼らは播磨で豪族の屋敷に仕え、牛飼いとして生活していましたが、ある日、都からやってきた男の前で、自らは市辺押羽皇子の子であると歌って舞ったことからその素姓が明らかになり、子がなかった清寧の後継者として都に迎え入れられることになりました。

このあたり、貴種流離譚としてなかなかよくできたお話ではあります。
ただ、『書紀』をよく読んでみると、平群や大伴などの大臣や大連らが互いの権勢をかけて皇位継承者を擁立していたふしもあり、この兄弟の「発見」にも、そうした思惑がからんでいた可能性も大いにあります。

それはともかく、清寧が崩御したあと、本来であれば兄である仁賢のほうが先に即位することになっていました。
けれども、兄弟発見のきっかけとなった歌舞を、弟である顕宗が先に行ったことから、仁賢は即位を辞退し、顕宗が即位することになったと『書紀』は記します。
けれどもこれも、この二人の前に二人の伯母とされる飯豊青皇女が即位した形跡があることから、実はこの二人は対立していて、その対立を収めるために飯豊青皇女が即位した可能性があります。
『書紀』では美談にしたてていますが、実は顕宗と仁賢の兄弟は、どろどろの権力闘争を繰り広げていたのかもしれません。


で、その顕宗が住んだとされる宮がこちら。

 八釣バス停
 八釣のバス停から歩いて数分です。
 私は飛鳥資料館から歩いていきました。上りですけど、そんなにきつくなかったです。


 弘計皇子神社1  弘計皇子神社2
 弘計皇子神社(おけおうじじんじゃ)。

飛鳥の東側の高台にあります。

調べてみると、「飛鳥」というのは、飛鳥川が流れを変えて流れる低地で、顕宗がここに宮を構えたとされる時代には、まだ人が住めるような土地ではなかったようです。
その飛鳥を整備したのは蘇我氏だったとされています。
川筋を整え、出来上がった土地に、蘇我氏は自らの氏寺である法興寺(飛鳥寺)を建立し、飛鳥板蓋宮を造営したのです。
その意味で、『書紀』には批判的に描かれている甘橿丘の邸宅建造も、蘇我氏にとっては「当然の権利」だったのかもしれません。

いずれにせよ、それは顕宗天皇の時代から100年ほどのちの話です。

顕宗天皇が八釣に宮を構えたときには、もちろん法興寺もありませんでしたし、板蓋宮もありませんでした。近頃発掘されて話題になった巨大方墳はもちろん、天武持統合葬陵も、鬼の俎・雪隠も、欽明天皇陵もありませんでした。
「日本人の心のふるさと」飛鳥は、大和三山を背景に、甘橿丘、雷丘だけが姿を見せる、何もない低湿地にすぎなかったのです。

その飛鳥の東側の高台に、初めて宮を構えたのが顕宗天皇でした。

小高い丘になった神社の南側には、豊かな水量の小川が流れていました。
とても穏やかな、気持ちのいい場所です。


 八釣から西へ延びる道1
 西へ向かって真っすぐに、小道がのびていました。

とても古そうな道です。
実はここからバスに乗って桜井駅へ出る予定だったのですが、この道の風情にひかれ、歩いてみることにしました。

 八釣から西へ2
 振り返って、八釣宮のあった高台を望む。

しばし歩くと、水落遺跡の北側に出ました。
道路関係はまったく詳しくないので当てずっぽうなのですが、この道を甘橿丘に沿って南へ下れば、古代の主要道路だった紀路に出られるのかもしれません。
いや、それを目的に、顕宗はここに宮を築いたのでは?などとも思いました。
西の山並みを越えた先には、「倭の五王」として知られた大王たちの、巨大な前方後円墳があります。彼らは海を利用して力を得た形跡が濃厚です。
その末裔とされる顕宗が、海からのびてくる紀路を意識しなかったはずはありません。


顕宗が、即位後わずか3年で崩御したあと、兄の仁賢が即位します。

彼が宮を構えたのは、顕宗や清寧が宮を構えた地域よりかなり北に寄った、現在の天理市石上付近の石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)です。
平尾山稲荷神社が伝承地とされています。

近鉄やJRからはかなりあるので、奈良からバスに乗って「天理北中学校前」のバス停で下車。そこから歩いて向かいます。

  天理北中学校バス停


5~6分で、小高い丘が見えてきます。
ここも、宮を置くのにふさわしい、眺めのいい穏やかな場所です。

  石上広高宮1 石上広高宮2



  石上広高宮4 石上広高宮5
  赤い鳥居が並んでいます。

あまり来る人もいないのか、鳥居には蜘蛛の巣がいっぱい!
横からまわりこんでお参りします。


  石上広高宮3

この石上広高宮は、名前からしてわかるように、「石上」、つまり物部の本拠地にかなり近い場所にあります。
それと関連するのかどうか、『書紀』にはこの頃から、物部麁鹿火の活躍が記されるようになります。


平群。大伴。物部。蘇我。
そうした古代の豪族たちの影が、3人の天皇の宮の周囲に見え隠れします。


古代の天皇たちは、絶対的な王だったのではなく、さまざまな豪族に推戴されて即位したとされています。
前回も書いたように、清寧、顕宗、仁賢、武烈の4天皇は、雄略と継体の間にはさまれて、ちょっと影が薄い天皇たちでもあります。
今回、実際に彼らが生きた宮をめぐってみて、彼らを支え、盛り立てていこうとする豪族たちの思惑や計算が、肌で感じられるような気がしました。
時に対立し、争いながらも、天皇というひとつの御輿を互いの力で支えていく……、そんな「日本的」な王権のありかたが、はるか古代から現代に至るまで連綿と伝えられてきたことにも、何か感動めいたものを覚えます。
天皇家は「絶対王者」だったから長く続いたのではなく、ある意味、時の権力者たちの支えを必要とする「かよわい存在」だったからこそ、万世一系とも伝えられる長い歴史を紡いでくることができたのかもしれません。


いずれにせよ、今回訪れた3つの宮伝承地は、みな見晴らしのよい小高い丘の上にあり、気持ちのいい風が吹き渡っていく場所でした。


1500年前。
いろいろなことに悩み、苦しみながら、ここでクニを治めた大王たちがいた。
彼らを含め、この国に暮らす人々が、はるか古代から必死に生きてきたからこそ、今の日本がある。

穏やかな初秋の光の中で、そんなことも考えました。




<おまけ>

  石上広高宮 猫 (2)
  石上広高宮の近くにいた猫。 警戒心満載だけどカワイイ。

(2017年10月31日)

 

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