継体以前の宮をめぐる その1

皆さんご存知のとおり、確実な歴史としての天皇家は、欽明天皇あたりから始まったというのが定説ですが、継体天皇ってのは、その欽明天皇のお父さん。

継体天皇については、このブログでも何回か書き散らしたことがあるので、今回は触れません。彼についてはいろいろな謎はあるのですが、欽明天皇のお父さんであるからには、彼が「実在」したことは間違いない。

今回探るのは、その「継体天皇の前」。

つまり、確実な天皇家の祖先の前、この国の王政はどうなっていたか?ってことですな。
王政なんて大げさなことじゃなくても、どんな王がいて、どんな暮らしをしてたのか、彼らはどんな風景を見ていたのか、ってことを知りたくなったわけです。


継体の前に存在感を示した天皇といえば、

雄略天皇。

「ワカタケル大王」としても知られ、稲荷山鉄剣、江田船山大刀の銘文にもその名が刻まれる天皇です。中国史料に残る「倭王・武」とはこの人のことだという説が有力です。

その雄略天皇から継体天皇までの間には、

 清寧天皇
 顕宗天皇
 仁賢天皇
 武烈天皇

という、4人の天皇がおりました。

おりました……、はずなんですけど、この4人、なんだか妙に

影が薄い。

実在しなかった、ってことはさすがにないと思うけれど、雄略と継体の存在感実在感ありありな印象と比べると、なんかミョーに「薄い」。
『日本書紀』の記述もスカスカ。

彼らの時代の『書紀』にあるのは、顕宗と仁賢の父が雄略に殺され、身を隠していた播磨で二人が「発見」されたというエピソード、武烈が何だか超残酷な行為を繰り返したというエピソードが大きく取り上げられているくらいで、それ以外には大したことは記されていない。
「倭王・武」が宋に対してお墨付きをチョーダイ、と迫るほど韓半島が大変なことになっていたはずなのに、海外情勢に関する記述はほとんどといっていいほどない。
大臣だった平群臣真鳥が滅ぼされるという大事件も、書紀と古事記では、起った天皇の代が異なったりしてる。

存在感MAXの「雄略」と「継体」の間に挟まれて、なんかふわふわと軽く扱われちゃってるさまは、明治と昭和に挟まれた大正みたいな感じがします。

さらに、中国史書を詳細に見てみると、『書紀』の年代と微妙に食い違っていることがわかります。
例をあげると、『宋書』に記された「倭王・興(安康天皇か)の遣使」は462年のこととされていますが、『書紀』の編年によれば462年はすでに雄略が即位しており、倭王興とされる安康天皇は、その6年も前に没しています。
さらに「倭王・武」とされる雄略の初めての遣使が『宋書』に記されているのは478年で、『書紀』によれば23年にも及ぶとされる雄略の在位の、最後の2年のことです。即位してすぐとは言わないまでも、人にものを頼むならもうちょっと早く送っとけよ雄略、などとツッコミたくなってしまいます。
さらに、『古事記』に書かれている「没年干支」(天皇の没した年の干支を記したもの)によれば、雄略の没年は「己巳」の年、つまり489年。この489年という年は、『書紀』の編年によれば、雄略没後即位したとされる清寧、顕宗もすでに没し、仁賢の代に入っている年です。
さらに不審なことには、『梁書』には、502年に「倭王武」が征東将軍に任ぜられる、とあるのですが、502年といえば、継体が即位したとされる年の5年前。仁賢も没したあとの、武烈天皇の時代です。

何が言いたいかってえと、つまり、「雄略の時代」は、『書紀』が主張するより10年、下手すれば20年以上「後だった」ってことじゃないのか? ってこと。
そうなると、『書紀』に書かれた、清寧、顕宗、仁賢、武烈の4天皇はどこへ?

実在しなかった! と言い切ってしまうのは簡単。

でも、そんなわけにはいかない。
だって、記紀に記録が残っているのは事実なんだから。

並立していた、という考えもあります。
「倭の五王」王朝と、別の王朝が同時に存在していて、一方の王朝の娘が、これまた別系列の王である継体のもとに嫁いで生まれたのが欽明天皇だったので、そちらの王朝のことも記録しておく必要が生じて、『書紀』に組み入れられたとか?

まあ、いずれにしろ確実にいえることはただひとつ。

4人の「王」たちは、確かに存在していた。遠い昔の、この国に。


だったら、その痕跡を探ってみようじゃないの。
彼らの見たであろう景色を、この目で見てやろうじゃないの。

そう思って、お出かけしてまいりました。


……と、長くなっちゃったので、続きは次回。

(2017年10月24日)

 

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