日いずる国のシンデレラ

先日、飛鳥に行ってきたのですが、せっかく行くのならと、興味のある場所を歩き回ってみようと画策しました。

なにしろ、飛鳥でさえ数えるほどしか訪れていないのですから、偉そうなことを言いつつ、実は完全な「初心者」なのです。

両槻会の例会で藤本山とか尾曾とかマニアックな所に行ったことはあるものの、それは両槻会の力を借りた仮の姿で、実は藤原京跡や山田寺などの基本的な所にまだ行ったことがありません。
(今回、藤原京跡を通りかかったとき、両槻会スタッフに「ここ来るの初めて~」と能天気にのたまったところ、「ええええっ!」と驚かれてしまいました)


で、「磐余」を歩いてみようと思ったのですね。

一人で歩く、あるいはチャリをお借りして一人で走る、という案もあったのですが、梅前のあまりの頼りなさに、「わかった!もう案内してあげましょう!」と両槻会スタッフが乗り出してくれて、みんなでそのあたりを歩くってことになったわけです。
ありがたい。ホント、ありがたいお話でゴザイマス。



その時に初めて知ったのが、

芹摘姫(せりつみひめ)伝説」。

どのようなお話かと申しますと、

その昔、斑鳩に宮を構えた聖徳太子は、推古天皇のおられた小墾田宮まで、馬に乗って通っておりました。
膳夫の地(現在の橿原市膳夫町付近)を通りかかったとき、ひれ伏す人々の中に一人だけ、聖徳太子が通るのにも気づかず、一心に芹を摘む娘がおりました。
不思議に思った聖徳太子が馬を降り訊ねてみますと、娘は病に伏した母のために芹を摘んでいたというのです。
娘の清らかな姿に心を打たれた聖徳太子は、娘を妃として迎えました。
その妃こそ、聖徳太子に最も愛され、太子が亡くなる前日に、同じ病で没した膳部菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)とされています。


膳部菩岐岐美郎女は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘だったと言われています。
その一方で、膳臣の養女となって、聖徳太子の妃となったという説もあります。
そのあたり一帯は、現在も地名が残るように、膳臣の勢力圏だったとされているからです。
母のために芹を摘んでいたという伝説が本当ならば、彼女は名もなき民の娘だった可能性もあります。お話としてはそちらのほうが面白いですよね。


民の娘が、その心の清らかさゆえに、貴い人の妃になる。
まさにシンデレラストーリー。女の子の夢ですな。

聖徳太子の妃には、推古天皇の娘やら、蘇我馬子の娘やら、敏達天皇の孫やら、そうそうたるメンバーが揃っていたのですが、彼の愛情を一身に受けたのは膳部菩岐岐美郎女でした。
そういうところも、ストーリーとして美しい。
映画にしてほしいくらいです。



……でもさ。

と、ひねくれ者の梅前は考えてしまうわけですよ、例によって。

太子が通るのに気がつかず、芹を摘んでた?

気がつかないはずはないと思うけどなぁ、はっきり言って。
だって、みんながひれ伏してるんだよ?
まわりに人がいなかったってシチュエーションもありえるけれど、聖徳太子のまわりにはお供の人がいたはずだし、太子の一行であることを示すために幡を立てていたっていう説もあるくらい賑々しかったはず。

それを「気がつかないで芹を摘んでた」。
それも、「病気の母のために」。

へ~~、そうですか。お母さんのためにねぇ。

考えようによっては、この「芹摘姫」、そうとうなタマだったようにも思える。
もしかしたら彼女は、自分の美貌をわかってたんじゃないのかなぁ。
聖徳太子の目にさえとまれば、イチコロにできる自信があった。だからこそ、他の民と同じように、道端にひれ伏すつもりなんかなかった。

「さあ。私を見て」

そう念じながら彼女は、一番自信のある横顔を、太子一行に向けていたのかもしれない。

まんまとひっかかった太子くん。
オトコって単純ね。
ま、幸せだったらそれでいいんだけどさ。


この考えを両槻会スタッフに披露したところ、「うわ~、ひねくれとるなぁ~」と大絶賛(違う!)されました。


ま、かの美輪明宏先生も、

「シンデレラはとんでもない女よ。だって、相手が王子だってわかっていたんだもの。わかっててひっかけたのよ。悪い女だわ」

とおっしゃっていたこともありますしね。
芹摘姫が、「太子ひっかける気マンマンの女」だったという説も、ありえない話じゃないと思うわけです。


……もしも、本当に「純愛」だったとしたら、スマン。

聖徳太子と膳部菩岐岐美郎女に、心よりお詫び申し上げます。

(2017年10月13日)

 

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