大伯皇女について

*注:大伯皇女は「大来皇女」とも表記しますが、ここでは「大伯」といたします。別に何か深いポリシーがあるってわけではなくて、ワードの変換登録がそれになってるってだけです、ハイ。


で、大伯皇女。

お父さんは 天武天皇。

お母さんは天智天皇の娘、大田皇女。

当時数多かった「叔父・姪婚」です。
大田皇女は、天智の娘の中でも最年長の皇女で、さらに大田の母は右大臣をつとめた蘇我倉山田石川麻呂の娘だったとあって、その血統の良さは折り紙つきでした。
そんなこともあって、彼女は天武の妃に真っ先に選ばれたのです。

そんな大田皇女が生んだ大伯皇女は、天武の正式な妃となった女性が生んだ子としては初めての子でした。
(それ以前に額田王が十市皇女を生んでいますが、額田王はその後の天智との関係もあって、天武の正式な妃とはされていなかったようです)

つまり、大伯皇女という人は、天智を祖父に、天武を父に持つ純血種である上に、天智にとっても初めて得た娘から生まれた娘であり、天武にとっても正式な妃から生まれた初めての子だったというわけです。
初めてづくし。全部が一等賞、という女性だったんですね、大伯皇女は。
天智と天武が古代天皇の中でも両巨頭であることを考えると、これはなかなかすごいことであります。


その大伯皇女が生まれたのは、斉明7年(661)のことで、百済救援に向けての西征の途上、大伯の海にさしかかった船上だったとされています。

この、「大伯」という名ですが、二年後に生まれた大津皇子の「大津」とともに、生誕地の名前をそのまま採用した、当時の皇子・皇女としては珍しい名前です。当時の皇子や皇女は、養育氏族や乳部の名を呼び名とするのが一般的だったとされているからです。
ちなみに、大伯と大津の異母兄弟である草壁皇子もこの西征の最中に生まれていますが、彼は生誕地の名前をつけられていません。
大伯と大津だけがこうした異例の名を持つことについて、西征の成功を祈った呪術的なものと考える説がある一方で、「この姉弟には何か特別な事情が存在したのではないか」という考え(両槻会事務局長・風人氏)もあるようです。

天武2年(673)、13歳になった大伯皇女は、伊勢斎王に任ぜられ、翌年伊勢に下向します。
これは、いわゆる「伊勢斎王」の最初の例(伊勢に神宮が置かれ、そこに奉仕した斎王という意味。「斎王」自体ははるか古代から何名かの例があります)とされています。
これは天武の指示によるものと思われますが、ようやく婚期を迎えた大切な娘、それも、天智と天武にとって「初めてづくし」の貴種である娘を、なぜ天武は遠い伊勢に向かわせたのでしょう。
貴種だからこそ神に仕えさせたのだ、という考えもあります。その一方で、大伯と大津の姉弟に存在した「特別な事情」ゆえに彼女が都から遠ざけられたという考え方もできるのではないでしょうか。

大伯が伊勢斎王となってから13年、朱鳥元年(686)9月に父である天武天皇が崩御します。
その直後、弟である大津皇子が謀反を企てたと密告され、死罪になってしまいます。
父の死と弟の刑死により、大伯は斎王を辞し、都に戻りました。

大伯が亡くなったのは大宝元年(701)で、享年は41歳とされています。


この大伯皇女を語る上で欠かせないのは、何と言っても弟・大津皇子との姉弟愛でしょう。
父・天武天皇の崩御を受け、大津皇子は謀反を企てたとされています。一歳年長の異母兄・草壁皇子と、その母である鸕野讃良皇女に皇位が渡るのを阻止するためだったと言われています。
それに先立ち、大津皇子は、伊勢に奉仕する姉・大伯皇女に会いに行きます。
弟を見送る大伯の歌が、万葉集に残されています。

我が背子(せこ)を 大和へ遣(や)るとさ夜更けて 暁(あかつき)露に我が立ち濡れし
(わが弟を大和へ送り返さなければならないと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れてしまいました)

ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が一人越ゆらむ
(二人で歩を運んでも行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を今頃君はどのようにしてただ一人越えていることでしょうか)


謀反の計画は密告により露見し、大津皇子は処刑されてしまいます。彼の死を受け、大伯は伊勢から退下することになります。そのとき詠んだとされる歌が以下の2首です。

神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ君もあらなくに
(荒い風の吹く神の国・伊勢にでもいたほうがむしろよかったのに、どうして帰ってきたのでしょう、我が弟ももうこの世にいないのに)

見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに 何しか来けむ馬疲るるに
(逢いたいと私が願う弟もこの世にいないのに、どうして帰ってきたのでしょう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに)


さらに、大津皇子の遺体を二上山に葬るときに詠んだ歌が以下の2首。

うつそみの人にある我れや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)を我見む
(現世の人であるこの私は、明日からは二上山を我が弟として、ずっと見続けましょう)

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど 見すべき君が在りと言はなくに
(岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折りたいとは思うけれども、これを見せることの出来る君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではありませんか)


最後の歌の中にある「馬酔木」は、「あし」=「悪し」で、それを手折る、つまり大津皇子は無罪であると訴えているという説もあります。


この切々たる一連の歌によって、大津皇子と大伯皇女の姉弟愛は、さまざまな人の想像をかきたて、たくさんの評論や小説が書かれてきました。
それらに共通するのは、「姉思いの弟」、「弟の死にむせび泣く姉」のイメージです。


大伯と大津にとって不幸だったのは、彼らの母である大田皇女が、早くに亡くなったことでした。

斉明女帝と、彼女の娘で孝徳皇后だった間人皇女が牽牛子塚古墳に葬られたのが天智6年(667)で、その時に大田皇女をその陵の前の墓に葬ったという記事が書紀にあるので、大田皇女が亡くなったのはそれより前と考えられます。その年に亡くなったと仮定すると、その時大伯は6歳、大津は4歳です。まだ幼い姉弟は、母を失うと同時に、母によって得られた後ろ盾をも失うことになりました。

大伯と大津、特に大津皇子の胸のうちには、「母さえ生きていたら」という思いが常にあったことでしょう。
大田皇女が生きていたなら、大田の妹である鸕野讃良皇女が天武の正妃になることなどありえませんでした。そしてもちろん、天武の死後、鸕野讃良皇女が即位することなど、考えられもしなかったはずです。

そうした思いが、大津謀反の引き金となったのではないでしょうか。

大田皇女さえ生きていたら、天武の正妃の座を占めていたのは大田だったはずで、もしそうだったなら、大田の子である大津が、天武のあとをうけて即位することも充分ありえる話だったことでしょう。まだ二十代半ばだった大津が直接即位できなかったとしても、母の大田が、天武の正妃として、大津の成長を待つための中継ぎの天皇として立ったはずなのです。

母さえ生きていたら。母が天皇になれた。そしてゆくゆくは、自分に皇位がめぐってきた。

大津にとっては父から母へ、母から自分へと皇位がめぐってくることこそが「本来の姿」であり、父の没後、母の妹にすぎない鸕野讃良皇女や、彼女の息子である草壁が天皇になろうとしていることなど、笑止千万に思えたはずです。


その思いが、彼を謀反へと駆り立てたのではないでしょうか。
それは「謀反」ではなく、彼にとってはそれが皇統の「本来あるべき正しい姿」だったはずなのです。




……で、ここからは、梅前お得意の「妄想」の世界。毎度スミマセン。

妄想すな! とお怒りの方は、ここから先は読まないでください。

なら書くな! っておっしゃる方もいらっしゃると思いますが、

でも書く。

だってここは私のブログ。私だけの妄想の園、「妄想日記」なんですもの。ホホホホホ。悔しかったらかかってらっしゃい。

で、どんなことを妄想したのかっちゅーと。


大津は、姉を天皇にしようと思っていたのではないか。


ぷぷぷ。
梅前さん、そりゃいっくらなんでもありえないって。

などという皆さん、そうですよね。気持ちはわかります。

でも書く。

あえて書く。


「なぜ大津はわざわざ伊勢まで行ったのか」

その答えがここにあるような気がするからです。

大津が伊勢まで行ったのは、普通、「姉に最後の別れを告げにいった」などという美しい言葉で説明されていますが、そんなんじゃないと思う、私は。

だって、謀反が失敗に終わるなんて、その時点では誰にもわかっていないはずでしょ?
大津の伊勢行きは、「最後の別れ」なんて言葉じゃ絶対に説明できない。

大事な謀反の前に、はるばる伊勢まで行くのには、何か理由があったはず。

それが、「大伯に即位をうながしに行った」のではないかと私は考えるのです。

母・大田皇女が生きていたら、天皇として即位できた。
ならば、早世した大田に代わり、彼女の娘である大伯に、その権利がある。

大津はそう考え、自らの謀反の旗印として、大伯をかつぎだそうとしていた。


……妄想です、妄想。

でもね。
ありえない話ではないと思う。
謀反を計画するにあたって、大津は、自分が天皇になれるとは思っていなかったはず。だって、鸕野讃良皇女には、大津より一歳年上の草壁皇子がいるんだから。草壁より上に立てる人物を、そして鸕野讃良に対抗できる人物を、かつごうとしていたと考えるのが自然。そして、大津にとってそれは、姉である大伯皇女以外にはなかった。

けれども、大伯は、大津のその申し出を断った。

なぜか。
その理由こそが、「この姉弟に存在した何か特別な事情」だったのではないか、と私は考えるわけです。

その「事情」が何だったのか、ここでは語りません。
いや、ちゃんと考えてることはあるけれど、これ以上語ると

妄想の上塗り

になっちゃいますしね。
ここから先は企業秘密。うふ。



貴種とされていながら、天皇として即位できない「事情」。
もしも母が生きていたとしても、それを阻んだ「事情」。

……その内容を、大伯は知っていた。
そして、それを弟に告げた。
失意のうちに伊勢を後にする大津。
もし本当にそうだったとしたら、大津の背中を見送る大伯の胸は、張り裂けんばかりだったに違いありません。

万葉集に残された、深い悲しみに満ちた6首の歌。
私たちの心をつかんで離さない、哀切な響き。
それは、単なる「姉弟愛」だけではない、もっと切実な悲しみ、つまり、自分が弟を死に追いやってしまったという「慟哭」が、刻み付けられているからではないでしょうか。

(2017年10月3日)

 

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