はじめて学ぶ「磐井の乱」上級編

「上級編」ってことなんだけれども。

「上級」と胸を張れるほどの知識をいまだ持ち合わせない私。

なので、今回もまた「あっちへうろうろこっちへうろうろ」って感じで進めさせていただきます。「上級」を期待した皆さま、ごめんなさいm(__)m


……で、前回まででちょっとこんがらかってきたので、基本に立ち返ってみることにいたしましょう。


【筑紫君磐井の乱とは】
継体21年(527)、九州の豪族・筑紫君磐井が起こした反乱。

【原因】
1.近江臣毛野が6万の兵を率いて行おうとした朝鮮半島出兵を、磐井がとどめようとしたという説。
2.朝鮮半島に影響力を有していた磐井を排除するため、毛野の軍が派遣されたという説。

※どちらが真実かは不明。
1に対しては、当時半島情勢はまだ切迫していなかったこと
2に対しては、磐井討伐軍の将軍に、毛野ではなく物部麁鹿火があらためて任命されたこと
などが反論としてあげられる。

【結果】
・筑紫君磐井は殺され、磐井の子は糟屋屯倉を献上した。
・その後、安閑朝にも磐井の勢力圏だった地が屯倉として中央に没収された。

【当時の状況】
・墳墓が巨大な前方後円墳であることから、磐井はかなりな勢力を有していたと推測される。
・その一方で、江田船山古墳(熊本県・5世紀後半~6世紀初)出土の大刀に雄略の名があることから、中央の力が九州(少なくとも熊本)まで及んでいたことは間違いない。


……まあ、こんなところなんですね。
東奔西走してみても、結局、着地点はウィキペディアとそう変わらず。
まあ、ええやないの! 古代史なんてそんなもの。
人があっと驚くような新説は、どこかに無理や錯誤を隠しているものなんざんす。
古代史においては、平凡な答えこそ素晴らしい。ブラボー。よくやった!(と勝手に自画自賛)


と、まあ、ここで終ってしまってはつまらないので。


ここは皆さん、「あっと驚くような」ことも考えてみようじゃありませんか。
だってここは「古代『妄想』日記」なんですもの。妄想してなんぼのもんなのですわ。それが私の使命。妄想がおいやなら学術書をお読みなさい。(←誰だ)


……ということで、真面目な方はここから先はご遠慮ください。


【妄想その1】
筑紫君磐井=邪馬台国後継説

そうきたか。とお思いの皆さん。
はい、そうです。古代史におけるアンタッチャブル、邪馬台国の登場です。

みなさんご存知の通り、邪馬台国の所在地については、
「畿内説」
「九州説」
のふたつがあります。

纒向あたりの発掘の成果もあって、最近は畿内説がぶいぶいいわせてますが、九州説もやっぱり捨てがたい。

だいたいやね、九州が最先端だったあの当時、なんであんな奥まった田舎に邪馬台国があるとか考えんの? 纒向? ちゃうちゃう、邪馬台国は九州やで。

と、なぜか怪しい関西弁のおじさんの言うとおり、当時の九州は先進地。そこに女王の治める国があったとしても不思議ではありません。

で、「空白の4世紀」を経て、邪馬台国(九州)の力は徐々に弱まり、磐井が統治する小国へと集約されていったという可能性もあります。
5世紀には、畿内に勢力を持つ「倭の五王」が登場しますが、これも、考えようによっては、朝鮮半島の国々に対してと同じように、九州に存在した勢力を牽制するため、ヤマト政権が中国のお墨付きを欲したものと考えられなくもありません。
つまり、ワカタケル大王(雄略=倭王武)の時代に至っても、邪馬台国の末裔である磐井の勢力は、あなどりがたく存在していたとも考えられるのです。

朝鮮半島に本格的に進出したいという野望を持つヤマト政権は、長年目の上のたんこぶとして存在してきた磐井の排除に踏み切った。
それが磐井の乱だった。
ところが、磐井の力と人望と失ったヤマト政権は、朝鮮半島での基盤を逆に失うことになった。

……というのも、ありえない話ではないと思います。


【妄想その2】
火の国裏切り説

『日本書紀』には、
近江臣毛野が新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行ったところ、筑紫君磐井が、火(ひのくに・熊本周辺)と豊(とよのくに・大分周辺)をおさえてそれを阻もうとした。
と書かれています。

「火と豊をおさえて」ということは、火と豊はそれまで磐井の「領土」ではなかった、ととらえることもできます。

つまり、「火」と「豊」は磐井の「クニ」とは別の勢力として存在していて、乱にあたり、磐井は彼らと協力関係を結んだか、あるいは力でねじ伏せたかして自らの勢力圏に組み込んだ、ということではないでしょうか。

ここで気になるのは磐井が死んだ場所です。
『書紀』には、「筑紫の御井郡」と記されています。現在の福岡県三井郡とされているようです。地図で調べたところ、久留米に近い場所ですね。

もしも「火」(熊本)が味方なら、磐井はもっと南、あるいは有明海ぞいにまで逃げられたはずです。
でも、磐井は御井で死んだ。極論ではありますけれど、このことから、磐井は「火」の後ろ盾を失って死んだのではないかと考えるわけです。

前回もみた「江田船山大刀」には、「ワカタケル」の名が刻まれています。
江田船山古墳は、まさに熊本「火」の国に位置します。
「火」はワカタケル、つまりヤマト政権の勢力圏だった。それを磐井が乱にあたって自らの勢力圏に組み込んだ。そして、裏切られた。

もしかしたら磐井は、「大九州国」の建国を考えていたのかもしれません。
朝鮮半島に影響力を及ぼし、中国やヤマトと対等に通交を行う。そんな国がもしもできていたなら、その後の日本の歴史は大きく変わったことでしょう。

……ま、妄想です、妄想。


【妄想その3】
蘇我稲目活躍説

これはまた突拍子もないことを。
蘇我稲目ときたもんだ。
とのお叱りを覚悟しつつ。

ご存知の通り蘇我稲目は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿と続く、蘇我4代の最初の人物です。
ところがこの稲目という人物は、あれだけの権勢を築いた蘇我氏の初代でありながら、どのようにして政治の中枢にのし上がったか、その経緯がまったく明らかにされていません。
彼が最初に『書紀』に登場するのは宣化元年ですが、このとき彼はすでに「大臣」で、それは政権のほとんどトップです。
それまでにどんな功績があって、どんな働きをして彼が「大臣」という地位にのぼりつめたのか、『書紀』にはなにひとつ語られていません。

稲目が大臣に任じられた年の5月、詔が出ます。

「筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため海外の国は、海水の流れや天候を観測して貢を奉る。胎中之帝(応神天皇)から朕の世に至るまで、穀稼(もみだね)を収めて収穫したものを蓄えてきた。凶作の年に供えて賓客をもてなし、国を安んずるのにこれ以上の方法はない。
そこで朕は阿蘇仍君(あそのきみ)を遣わして、河内国茨田郡の屯倉の穀を運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばせよ。物部大連麁鹿火は、新家連を遣わして、新家屯倉の穀を運ばせ、阿倍臣は、伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の穀を運ばせよ。
官家を那津の口(ほとり)に造り建てよ。また、かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉はそれぞれ離れて遠いところにあるので、運ぶのに遠い。必要な時に、それに備えることば難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口に集め建てて非常時に供え、民の命を守るべきである。早く郡県に命じて、朕の心を知らしめよ」と言った。

なんのことかと申しますと、那津(なのつ・福岡県)に「官家」を建て、各地の屯倉から穀物を集めよ、という詔です。
これは、金官国国王・金仇亥の新羅降下など半島情勢の緊迫化に伴う兵站の確保と理解されています。
気になるのは、ここに登場する人々です。

阿蘇乃君
蘇我大臣稲目宿禰
物部大連麁鹿火
阿倍臣

以上4名が、宣化に「屯倉から穀を運ばせよ」と命じられています。
阿蘇乃君。もしかしたら、磐井を裏切り、有明海を封鎖して磐井の退路を断った可能性のある人物です。
物部麁鹿火。言わずと知れた、磐井討伐軍の大将軍です。

そして宣化はさらに、

かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉はそれぞれ離れて遠いところにあるので、運ぶのに遠い。必要な時に、それに備えることば難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口に集め建てて非常時に供え、民の命を守るべきである。

と言っています。
「筑紫・肥・豊」の屯倉の穀を、那津に集めよ、というのです。
それぞれ遠いところにあるので、などと理由をつけていますが、それは理由になりません。屯倉はもともと、ひとところにまとまってあるわけではありません。これはつまり、磐井の勢力圏だった土地に蓄えられた穀をすべて那津に集積することによって、その地の力を削いでおく、ということなのでしょう。

磐井討伐に功績のあった人物と並んで、ここに稲目の名前があがっているのはなぜなのでしょう。
大臣に任じられて以降、稲目の名前が登場するのはこれが最初です。つまりこれは、稲目大臣の「初仕事」なのです。

蘇我稲目が力を得たのは、古くからの豪族である葛城氏の娘を妻にしたからだという説があります。
そういった背景に加え、もしかしたら稲目は、磐井の乱に何らかの功績があったのではないでしょうか。

もちろん、単なる妄想にすぎません。
ここに登場する4人は、その当時、屯倉から穀を動かせるだけの力を持っていた人物の、単なる羅列なのかもしれません。現に物部麁鹿火は大連ですし、阿倍臣というのもたぶん、稲目が大臣になったのと同じ時に大夫という役職に就いた「阿倍大麻呂」のことと思われます。
けれども、もう一人の大連である大伴金村の名前がありませんし、「阿蘇乃君」という名前は唐突です。『書紀』には阿蘇乃君はここ以外には登場しません。

そう考えると、「この4人=磐井の乱の功臣」という説も、ありえないことではないような気もするのですが、いかがでしょう。


最後はとりとめのない妄想に走ってしまいました。

数々の妄想うずまく「磐井の乱」、これにてお開きとさせていただきます。おつきあいありがとうございました。

(2017年8月11日)

 

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