はじめて学ぶ「磐井の乱」基礎編

「磐井の乱」というものについて、今まで深く学ぶのを避けてきました。

まあ、古代史マニアとしては、一応、

「継体天皇の時代、九州に勢力を持っていた豪族・筑紫君磐井が、新羅をバックに反乱を起こし、鎮圧された」

という程度のことは知っています。
でも、それ以上は知らない。
今まで学ぶ機会がなかったというか、そのあたりがすっぽりと抜け落ちていたというか、磐井の乱について詳しく知るためには、当時の半島情勢についてもしっかりと頭に入れておかねばならず、

そりゃーちょっとめんどくせーなー

と、後回しにしてしまっていたわけなのでゴザイマス。(こらっ!)


ところが前々回、九州は「朝倉」について書いたところ、ブログ仲間のれんしさん、両槻会若頭のよっぱさんから相次いでツッコミ……、じゃない、温かい励ましのお言葉をいただきまして、

これはいつまでも「磐井の乱」から目をそむけていてはいけないのでは

と深く反省した次第。


そこで今回は

はじめて学ぶ「磐井の乱」。

古代史に興味がない方も、「へ? 磐井? 何ソレ」な方も、梅前とともに一から学んでみようではありませんか!


さて、知らないことを学ぶとなったら、近頃の方はまずウィキペディアを見るらしいですが、私は違うよ?
原点から始めるのが私のお作法。
古代のことを知る場合、遠回りのように見えて、実はこれが一番確実な方法なのです。いや、マジで。
ご存知の通り、古代史は通説異説が百花繚乱。ネットで調べているうちに思いもよらぬ「トンデモ説」に足を突っ込んでいたりして、戻ってこられなくなったりします。
それを防ぐためには、まずは一次史料でしっかりと足場を固め、いつでもそこに立ち戻る態勢を整えておくことが大切。
これ、意外と重要なんです。


というわけで、まずは大御所『日本書紀』から。

(以下、青字の部分(日本書紀読み下し)は読み飛ばしても大丈夫。時間は有効に使いましょう!)


「磐井の乱」が起こったのは、継体21年。日本書紀の紀年を信頼するなら西暦527年ということになります。


その年の6月3日条。

 近江毛野臣が兵6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(金官国とその周辺)・■(←口へんに彔)己呑(とくことん・慶尚北道達域郡慶山周辺との説あり)を奪い返し、任那に合わせようとした。
 このとき、筑紫国造磐井が、ひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして実行しないうちに年を経ていた。事の成りがたいのを恐れて、つねに隙をうかがっていた。
 新羅はこれを知って、ひそかに貨賂(まいない)を磐井のもとへ送り、勧めるには、毛野臣の軍を防ぎ止めよと。
 そこで磐井は、火(ひのくに・肥前と肥後のこと)豊(とよのくに・豊前と豊後)のふたつの国をおさえて、職務を果たせぬようにした。外は海路を遮断して、高麗・百済・新羅・任那などの国が年ごとに貢物を送る船を欺き奪い、内は任那に遣わされた毛野臣の軍をさえぎり、無礼な揚言をして、「今でこそお前は使者などになっているが、昔はわが仲間として肩を擦り肘を擦りつつ同じ器のものを食った仲だ。それが使者になったからといって、俺を服従させようとするのか」と言って、戦って従わなかった。驕り高ぶり、血気盛んであった。
 そんなわけで毛野臣は前進を阻まれ、中途で停滞してしまった。天皇は大伴大連金村と物部大連麁鹿火、許勢大臣男人らに詔して「筑紫の祝いが反乱を起こして、西の国をわがものとしている。今誰か将軍となるものはいるか」と言った。大伴大連ら皆が「正直で勇敢で、軍事に通じているのは今、麁鹿火の右に出る者はおりません」と言った。天皇は「よし」と言った。

……読み飛ばしたでしょ?
ね?
めんどくさいよね。こういうの。

要は、

・近江臣毛野が、新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行った。
・すると、新羅から賄賂を得ていた筑紫君磐井が、火(今の長崎、佐賀、熊本あたり)と豊(大分あたり)をおさえて近江臣毛野を阻んだ。

ということですな。


続く8月1日条。

 詔して「ああ、大連よ。磐井が叛いている。汝が行って討て」と言った。
 物部麁鹿火大連は再拝して、「磐井は西の果ての心のねじくれた男です。川に阻まれていると言って朝廷に仕えず、山が峻険なのをいいことに乱を起こしました。徳をやぶり、道に背いたのです。侮り驕って、自分を賢いと思っています。昔の道臣(大伴氏の祖)から今の室屋に至るまで、帝のために戦ってきました。民を苦しみから救うことは、昔も今も変わりません。ただ天の助けを得ることは、臣(自分)が常に重んじるところです。よく慎んで討ちましょう」と言った。
 詔して「すぐれた将軍は出陣にあたって恵みを施し、恵み、思いやりをかける。そして攻める勢いは河の怒涛の如く、戦うこと疾風の如くである」と言った。さらに詔して「大将は民の命をつかさどる。国家が滅びるのも滅びないのも大将次第だ。尽力せよ。謹みて天誅を加えよ」と言った。さらに天皇は、みずから斧鉞(まさかり)を取って大連に授け、「長門から東は朕が統制しよう。筑紫から西は汝が統制し、賞罰も思いのままに行え。いちいち報告しなくてもよい」と言った。


はいはいはい。ここもまた読み飛ばした方。
さもありなん。読み飛ばしてオッケーです。

ここは

・継体が物部麁鹿火に磐井討伐を命じた

ってことですな。

この条は、中国の古典をもとに、人名や地名を入れ替えて書いたらしく、そのおかげで物部麁鹿火が大伴室屋をほめちぎる、という妙な展開になってます。
(いや、その部分は大伴室屋の言葉なのだという考え方もあります。『古事記』には、磐井討伐に派遣されたのは物部麁鹿火だけではなく大伴室屋も派遣されたとの記述があるので)
確かに、借り物の文章だけあって、ちょっと大げさ?
「攻める勢いは河の怒涛の如く、戦うこと疾風の如くである」なんて、「風林火山かっ!」って感じです。

まあ、ここになぜ、「よそから借りてきてまで大げさな文章を挿入しなければならなかったのか」という問題はありますね。


翌年528年(継体22)の11月11日条。

 大将軍・物部大連麁鹿火は、賊の首魁・磐井と、筑紫の御井郡(現在の福岡県三井郡)で交戦した。領軍の軍旗と軍鼓が向かい合い、埃塵は相乱れた。互いに勝機をつかもうと必死に戦い譲らなかった。
(物部麁鹿火は)ついに磐井を斬り、完全に反乱を鎮圧した。

12月条。

筑紫君葛子は、父の罪によって誅されることを恐れて、糟屋屯倉をたてまつり、死罪を免れることを請うた。


つまり

・大将軍として九州へ向かった物部麁鹿火は、筑紫の御井で磐井と戦い、死闘の末、磐井を斬殺、反乱を鎮圧した。
・磐井の子である葛子は、糟屋屯倉を献上して死罪を逃れた。


磐井の乱発生が527年6月で、鎮圧されたのが528年11月ですから、要するに「磐井の乱」は発生から一年半もかかってようやく鎮圧されたということがわかるわけです。


次なる「原点」、『古事記』を見てみましょう。

『古事記』継体天皇段

この御世に、筑紫君石井(いわい)は、天皇の命令に従わず、礼を失することが多かった。そこで、物部荒甲大連と大伴金村連の二人を遣わして、石井を殺した。

……『古事記』はこれだけ。
んまぁ。 なんて簡潔な。



以上、『日本書紀』と『古事記』から梅前が理解したことは

・527年6月、近江臣毛野が、新羅と戦うために6万の兵を率いて九州まで行ったところ、筑紫君磐井が、火(ひのくに・今の長崎、佐賀、熊本あたり)と豊(とよのくに・大分あたり)をおさえて近江臣毛野を阻んだ。

・8月、継体は物部麁鹿火を大将軍に任命し、鎮圧に差し向けた。

・激しい戦闘が繰り広げられたが、翌年11月になってようやく乱は鎮圧された。磐井は斬殺され、磐井の子は屯倉を献上して許しを乞うた。


ここまでよろしいですか、皆さん?

これだけ見ると、単なる「地方豪族の反乱と鎮圧の物語」です。
ところがやっかいなのは、そこに韓半島情勢がからんでくること。

そもそも、「近江臣毛野」がなぜ、6万もの兵を率いて九州へ行ったのか?

「近江臣毛野は、新羅に破られた南加羅・■(←口へんに彔)己呑(とくことん)を奪い返し、任那に合わせようとした」

と『書紀』は書いています。つまり、新羅が南加羅と■(口彔)己呑を奪ったので、それを奪い返すために兵を九州へ向かわせた、ということです。
ところが。
岩波文庫版『日本書紀』校注によれば、

「新羅が南加羅を奪ったのは毛野の出征以後のことで、この記述には錯誤がある」

はい?
……なにそれ?

つまり、近江臣毛野が九州に向かった時点で、南加羅は新羅に奪われていなかった、ということ?

じゃあ、近江臣毛野は 何のために 6万もの兵を率いて九州に行ったの?


……ここらあたりから、単純明快な「地方豪族の反乱」だったはずの「磐井の乱」は、何かきな臭い雰囲気を漂わせ始めます。


七転八倒の「磐井の乱」、次回に続く。

(2017年7月21日)

 

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