顕宗天皇と仁賢天皇について

『日本書紀』は歴史書である。

歴史書であるからには、歴史的事実のみを淡々と書き連ねてあると思われがちだが、実はそうでもない。

基本的には、起こった事実を客観的に記述し、並べてあるのだが、何カ所か、なんだか急に「ドラマティック」になっている部分があるのだ。
「筆が滑る」というのだろうか、書いているうちに自分に酔ってしまい、止められなくなってしまった、という感じ。夜中に打ったメールのような。


たとえば、第22代・清寧天皇の御代。

清寧天皇には子がなかったため、彼の在位中から、次の大王(おおきみ)を誰にするかで朝廷は紛糾していた。
清寧の父・雄略天皇が兄や従兄弟など有力な後継者たちを次々と抹殺してしまっていたことに加え、雄略の後継者と目されていた星川皇子が雄略の没後反乱を起こし、殺されていたからだ。清寧の即位自体、星川皇子の死を受けた、緊急避難的な措置であったと考えられる。(清寧は「生まれながらにして白髪」と伝えられており、身体的にはあまり頑健ではなかったようだ)

その清寧が崩じた。
後継者はどこにもいない。このままでは国がまとまらない。さあ、どうする。

そこで挿入されるのが、

「弘計皇子と億計皇子 発見の物語」(顕宗即位前紀) だ。

弘計(をけ)皇子と億計(おけ)皇子の父・市辺押羽皇子は、雄略の従兄弟にあたる。
雄略は、安康天皇が市辺押羽皇子を後継としようとしているのを察知し、市辺押羽皇子を狩りをしようと誘い出し、従者ともども惨殺してしまう。
父が殺されたことを知った市辺押羽皇子の2人の子どもは、丹波から播磨へ逃げ、丹波小子(丹波の子ども)と名を変えて、縮見屯倉首に仕えた。

23年にも及ぶ長い雄略の治世、彼らは播磨で身分を隠し、牛馬の世話をしながら生きていく。世が世であれば、自分たちは大王の皇子であったという思いを胸に抱きながら。

雄略が崩じ、清寧が即位した翌年、彼らが暮らす播磨に、みやこから伊予来目部小楯という人物がやってくる。その時たまたま、二人が仕える縮見屯倉首の家の新築祝いの宴があり、小楯はそこに招かれて、夜通しの宴会をした。
弟・弘計皇子は、今こそ自らの身分を明かす時だ、と兄に言う。だが、億計皇子は自分にはとてもそのようなことはできない、と逡巡する。末席に連なり、何やらもめている二人にむかって、小楯は「舞を舞え」と命じる。
二人はためらい、譲り合って、なかなか立とうとしない。小楯は苛立つ。「何をしている。早く舞え」と。

そこで兄・億計皇子が、まず舞を舞ってみせた。それから弟・弘計皇子が立ち、新築なった家を言祝ぐ歌を歌う。それに続き、

「川のほとりに生えている楊(やなぎ)は、水の流れになびいたり立ったりしているが、その根は決して流されることはない」

と歌う。興味をもった小楯は、「これは面白い。もっと聞かせろ」と言う。
弘計皇子は舞いながら朗々と声を上げて歌う。

「ヤマトの国は、茅原がそよそよと音立てる国である。その浅茅原のヤマトの国の、弟王である、われは

「え?」と小楯は眉を寄せる。これはいったいどういうことだ。さらに歌えと小楯は命じる。すると弘計皇子は、

「石上の神杉の枝を払うように市辺宮で天下をお治めになった、市辺押羽皇子の子である、われは」

と高らかに宣言する。
小楯は驚き、席を離れて、二人の前に平伏した。
小楯はすぐに宮を造らせ、二人の皇子をそこに迎えた。さらに使いを走らせて、みやこにこの「発見」を知らせた。それを聞いた清寧天皇は喜び、「自分には子がない。彼らを後継者としよう」と言った。


その3年後、清寧が崩御した。兄である億計皇子は皇太子とされていたが、弟が自分たちの身分を小楯に明かしてくれたのだから、弟・弘計皇子が大王になるべきだといって即位しようとしない。
弘計のほうも、兄である億計より先に即位することはできないと言う。
大王不在による混乱を避けるため、彼らの叔母(姉という説も)である飯豊皇女が一時的に即位する。しかし彼女は、在位わずか数カ月で崩じてしまう。
彼女の死を受け、弟の弘計がついに大王の位に上った。
これが第23代・顕宗天皇である。

伊予来目部小楯は、二人を発見した功により、山部の地位を賜った。



……以上が、「弘計・億計の発見」の物語である。

なんというか、過剰なまでにドラマティックだ。

二人の出自を知った小楯が、座を離れてひれ伏すところなど、

「水戸黄門かっ!」

とツッコミたくなるほどだ。
「舞を舞い、歌を歌って」事実を知らせるというあたりも、「普通に話せば?」とも思うし。

まあ、典型的な貴種流離譚であるので、話に尾ひれがついてこうなってしまったという可能性もある。
それにしても、この不自然なほどの演出過剰。報道番組に突然時代劇が紛れ込んでしまったような違和感がある。



個人的には、この不自然さには「意味がある」と思っている。


子どもの頃からともに辛酸をなめ、苦労をわかちあってきた億計と弘計。
その出生が明らかになったのちは、互いに皇位を譲り合った億計と弘計。

一見、非常に仲の良い兄弟に見えるが、細かく検証してみると、言われているほど仲良しではなかったことがわかる。

まず、二人が譲り合っている間に飯豊皇女が即位したということからしておかしい。譲り合う二人の前で、皇位をさらっていくような真似は、いくら叔母(姉)といってもできるものではないだろう。
飯豊皇女の即位は、後世の女帝の即位にもあるように、「対立した二人の候補が存在する時の折衷案」だと思われる。
つまり、二人は「譲り合った」のではなく、「どちらかを選んだら何らかの問題が発生する」状況にあったと推察されるのだ。

また、先に即位した弘計(顕宗天皇)が、父である市辺押羽皇子を殺した雄略天皇の陵を破壊しようと言い出したとき、兄・億計は、それを厳しい言葉で諫めている。
どうやらそれは、モラルに基づくものだけではなかったようだ。億計は、雄略の娘である春日大娘を妃としていたのだ。自分の妻の父親の墓を、いくら親の仇の墓とはいえ、暴くような真似は、億計にはできなかったということだろう。

さらに、その春日大娘が生んだ子どもたちの数と年齢から計算すると、どう遅く見積もっても億計は、弘計と億計が「発見」された直後には、彼女を妃にしていた可能性が高い。
つまり億計は、播磨で「発見」され、みやこに戻ってすぐに、雄略の娘と婚姻していたということだ。
あるいは、──このあたりの『日本書紀』の年代には信頼性が薄いので、断言はできないのだが──億計は、播磨で「発見」される以前から、雄略の娘と婚姻していた可能性すらある。いや、彼女が生んだとされる武烈天皇の年齢から計算すると、その可能性のほうが高いといってもいいくらいだ。
(そうなると、この「発見」のエピソード自体、事実かどうかわからなくなってしまうのだが)


そして、先に即位した弘計(顕宗天皇)は、在位わずか3年で崩ずる。

あとを受け即位したのは億計(仁賢天皇)だ。

彼が即位して2年目、弘計の皇后だった難波小野王が、「億計に対し礼を失した行動があった」ことを理由に自ら命を絶った。
この「礼を失した」行動がどのようなものであったか、はっきりとはわからない。『書紀』の記述によれば、宴会のとき、瓜を食べようとした億計に皇后が立ったまま刀子を皿に置いたとか、立ったまま億計を呼んだとかいうことが自殺の理由らしいが、どうしてそれが「自ら命を絶つほどの無礼」にあたるのか、いくら読んでもよくわからない。

だが、弘計の皇后は自殺した。

本当は、何かもっと重大な原因があったはずだ。
それは何か。
皇后自殺の理由の中に、億計の名があることを考えれば、億計に関わることであるのは明白だ。億計を殺害しようと計画していたか、あるいは、それに近いことであるのは間違いない。


億計と弘計は、本当は対立していた。

そう見るのが自然だろう。
彼らは本当は、皇位を「譲り合った」のではなく、「奪い合った」のではないか。

父を殺した雄略を、一方は憎み、一方は和した。
この場合の「雄略」は、雄略に代表される勢力、と言い替えていいだろう。
当時の大王は、群臣たちの推戴によって即位した。どんな有力な皇子といえども、群臣たちの賛成なくして大王にはなれなかった。
雄略朝に繰り返される吉備周辺勢力の反乱とその鎮圧、さらには清寧即位直前に起こった星川皇子反乱の経緯からみて、億計と弘計の対立は、そうした勢力同士の、大がかりな対立だった可能性がある。
そして、弟・弘計が兄・億計に対し執拗に皇位を「譲った」という記述は、億計(仁賢)に正統性をもたせたいという『書紀』の記述者の判断ゆえのことだろう。
継体天皇に嫁ぎ、「万世一系」の血をつないだ手白香皇女は、億計(仁賢)の娘だからだ。

「悲運の皇子発見」というドラマティックなエピソードは、そうした、朝廷内を二分した当時の状況を、隠蔽しようとしたものではないだろうか。



この場面に限らず、『日本書紀』の過剰演出の裏側には、必ず「何か」が隠れている。

そんな風に思えてならない。

(2017年6月29日)

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