中国正史に見る「日本」

 ご存知の通り、中国では、歴代王朝が亡びると、そのあとの王朝が前の王朝の歴史を綴ることが習いとなっておりました。歴代王朝が正式な歴史書として認めた「正史」は、『史記』から『明史』まで24種ありまして、まとめて「二十四史」と呼ばれています。
 その「二十四史」のうち、日本について記述されているものは14に及びます。一番古いものは『後漢書』、その次が『三国志』。次いで『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』『宋史』『元史』……と続きます。
 (『後漢書』は『三国志』よりあとに書かれたものなのですが、時代の順番としては後漢のほうが古いので先にあげました)


 それら中国の「正史」の中で、日本がどのように描かれているか、古いものから順に紹介していきましょう。



『後漢書』 倭

 歴史書に記された、一番古い「倭」の記録。 倭の習俗がいろいろ。男は顔や体に入れ墨をしている、なんてことが書いてある。
「倭の奴国」に印綬を授けた、ってことが書いてあるのもここ。江戸時代に志賀島の農夫、ジンベエさんが畑の中から発見したという、かの有名な 「漢倭奴国王」金印 こそが、この時の印綬だったとされています。
 この『後漢書』には、永初元年(107)に「倭国王・師弁(すいしょう)」が朝貢してきた、なんてことも書いてある。この師弁王こそ、「正史」に残る一番古い日本の王の名前なんです。記録に残っている倭の一番古い王は卑弥呼じゃないのよ。これ、ちょっと使える話ね。
 で、その卑弥呼のことも書いてある。その後起こった「倭国大乱」のあと、王に共立された、と。「共立」ってことは、みんなに推されて王になった、ってことで、今で言えば合衆国大統領みたいな感じでしょうか。例の「鬼道に仕え、能く衆を惑わす」という卑弥呼のキャッチフレーズも、この書に書かれています。



『三国志』 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

 おなじみ 「魏志倭人伝」。
 この、「『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の通称が「魏志倭人伝」なのです。「魏志倭人伝」という本はない!
 それにしても、「魏志倭人伝」は古代史関連の本を読むと必ず最初に登場するので、てっきり分厚い書物だと思っていたのに、『三国志』の中のほんの一部分、それも「なんか東のほうのことをまとめて書いちゃえ」的な一冊の、そのまた一部分に過ぎなかったなんて。初めて知ったときには結構ショックでした。
 けれどもこの、文字数にすれば2千字足らずの「魏志倭人伝」が、邪馬台国の所在を探る唯一の手掛かりなのです。ここに書かれている「水行」やら「陸行」、あるいは「南」「東」という言葉に、多くの人がチャレンジし、日々論争を繰り広げているのは皆さんご存知の通りです。邪馬台国の場所を知る、すべての、そして唯一の手掛かりが、この「『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」、通称「魏志倭人伝」なのです。



『宋書』 倭国

 これも古代史ファンには欠かせない史料です。
「讚(さん)死して弟・珍(ちん)立つ」
「済(せい)死す。世子(跡継ぎ)の興(こう)、貢献せしむ」
「興死す。弟の武(ぶ)立つ」
 5世紀の日本を支配したとされる 「讚・珍・済・興・武」 、つまり 「倭の五王」 がここに記されているのです。
 讚と珍が兄弟であること、そして興と武の父が済であることはここからわかるのですが、「讚・珍」と、「済・興・武」の間にどのような血縁関係があるのかについては記載されていません。
 そこで、「武」はワカタケルの名を持つ雄略で決まりだの、てことはその父の「済」は雄略の父・允恭だろう、ついでに「興」は雄略の兄、安康だろう、んでもって「珍」は仁徳だ、いやいや「讚」こそが仁徳だ、違う違う「讚」は応神だろ、などなど、これまた邪馬台国所在地に勝るとも劣らない論争が、日夜繰り広げられているわけです。



『梁書』 倭伝

 ここには上記「倭の五王」について、「珍」ではなく「弥」と記されており、さらにその「弥」と「済」は親子である、と書かれています。つまり、『宋書』ではつながっていなかった部分がつながるわけですね。まあそれでも、応神と仁徳は親子であって兄弟じゃないので、「讚」=応神、「弥」=仁徳とするにはまだムリがあるんですけれども。



『隋書』 東夷伝 倭国

 ここに登場するのが、かの有名な「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」です。
 われらが厩戸皇子さまの書いた、ある意味ぶっとんだ内容のこの国書を見た煬帝が、「何ソレ、失礼しちゃう。二度とアタシに見せないでちょうだい!」と怒った話は有名です。
 それでも煬帝は翌年、裴世清を答礼使として倭国に遣わします。このあたりは『日本書紀』にも記載されているところで、中国から見た倭国と、倭国内で記録された歴史がようやくきちんと合致しはじめます。



『旧唐書』 倭国・日本

 『旧唐書』は、「倭国」と「日本」を分けて書いています。
 これは、国号の変更がその時期にあったということなのでしょうが、「日本」の冒頭に「日本国は、倭国の別種也」と書いてあるのが興味深いです。「別種」ってことは別の種類、ってことで、倭国と日本は別の国なのかい? などと。
 ま、それはさておき、「倭国」のほうには、唐から遣わされた高表仁が、「緩遠の才なく(外交的手腕がなくて)」「王子」と礼を争い、むなしく帰ってきた、という記述があります。この「王子」が誰のことなのかについてもまた、さまざまな考えが出されています。
 当時の天皇は舒明ですが、息子の中大兄はまだ7歳。いかに中大兄とはいえ、7歳で唐の使者と渡り合えるはずもありませんので、交渉にあたった別の人物が「王子」と見なされたということになります。「大兄」の称号を持っていた山背王(厩戸皇子の子。当時30代後半くらいか)が妥当な線ですが、少し若いですが舒明の長子である古人大兄皇子(当時20代?)も捨てきれませんし、当時朝廷に力をふるった蘇我蝦夷・入鹿親子のいずれかとする説もあって、「王子」が誰のことを指すのか、まだ確定していません。

 で、「日本」のほうには、「粟田真人が則天武后に会った」とか「阿倍仲麻呂が日本に帰らなかった」とか「橘逸勢と空海が来た」とか、確かに国号が「日本」になってからのことが書いてあります。


『新唐書』 日本

 『新唐書』は、まず、日本の位置など地理的なことを紹介したのち、日本の歴代の天皇名がずらっと書いてあります。
 驚くべきは、「初代は『天御中主(あめのみなかぬし)』」なんて書いてあること。天御中主って、古事記に記された、「最初に生まれた神」ですよ。なので、タカミムスヒ、イザナキ・イザナミ、もちろん天照大神なんかより古い。そんな、宇宙で最初に生まれたとされる神の名前が、日本の初代の王として中国の史書に登場しているのです。これにはびっくり。

 続いて、神武、綏靖、安寧、懿徳……、と古代天皇の名前がずらりと記されているのですが、ところどころ誤字はあるものの、その正確さには驚かされます。 「崇峻死して欽明の孫娘、雄古が立つ」なんて書いてある。「雄古」ってのは推古の書き間違いでしょうが、推古は確かに欽明の孫娘。 「その次は舒明、皇極」なんて、100点満点、完璧な記述です。
 たぶん、日本の正史として遣唐使が中国に持って行った『日本書紀』が、その基になったんでしょう。「天御中主」の記述から察するに、『古事記』も中国に運ばれた可能性があります。

 ところが。
 大化改新後、天皇の血縁関係を記載するようになると、突然腰砕けになる『新唐書』。たとえば、

「孝徳死し、其の子の天豊財(あめのとよたから)立つ」
 天豊財ってのは斉明天皇のこと。(本名のタカラに天、豊の美称をつけたものですな)彼女は孝徳の姉なので、「子」ではありません。ついでに言えば、この「天豊財」が皇極と同一人物という記載もありません。彼の国には「重祚」という考え方はないらしい。(確かに中国では、王が位を譲った、という話はあまり聞きませんよね)

「天智死して子の天武立つ」
 これも、ご存知の通り天武は天智の弟なので、「子」ではない。

「天武死して子の総持立つ」
 天武のあとに即位したのは持統天皇。なので、「総持」というのは持統の間違いなのでしょうが、彼女は天武の妻であって子ではありません。
 あるいは、少数意見ではありますが、ここに書かれた「子」という記述を重視して、一時期朝廷の中心となっていた高市皇子(天武の長子)が即位していたと考える人もいます。

「文武死して子の阿用立つ」
 文武天皇亡き後即位したのは彼の母である元明です。「阿用」というのは、彼女の名前である「阿閉」の誤記だと思うのですが、「子」ではなくて「母」です。さらに、その阿用が死んだのち、子である聖武が即位したと書かれていますが、聖武は文武の子で、元明にとっては孫にあたります。
 さらに、「総持」と「文武」の関係は明記されていません。(「総持」=持統なら祖母と孫)

 まあ、このように、私たちが「それは子じゃなくて弟!」とか「子じゃなくて妻!」などと、中国の「正史」である『新唐書』に向かってツッコむことができるのは、わが国に『日本書紀』や『続日本紀』などの確たる史料が存在するからです。
 もしも『日本書紀』や『続日本紀』が残されていなくて、海外にしか頼る史料がなかったとしたら、私たちはこの『新唐書』の記述をうのみにするしかなかったことでしょう。つまり、古代日本に君臨した王の系譜として、

「孝徳─天豊財─天智─天武─総持」
「文武─阿用─聖武」

という系譜が、動かしがたいものとして存在し、彼らの関係はすべて親子としてとらえられ、「総持」と「文武」の関係は永遠の謎とされていたことでしょう。
 もちろん、「皇極」と「天豊財」が同一人物だなんて考えてもみず、彼女と「総持」「阿用」が女性だったなんて夢にも思わないことでしょう。「欽明孫女」とされる「雄古」だけがなぜ、女性ながら王になれたのか? なんて議論が真剣に交わされたりして。「卑弥呼」も女、「雄古」も女、ってことは、名前の最後に「コ」がつく王は女性である! なんて論文が書かれていたかもしれませんね。だから日本女性の名前には「子」がつく人が多いのだ! なんてね。
 もちろん、小説家たちも、『新唐書』のこの系譜に従って、天武が天智に向かって「父上さまっ!」などと呼びかける小説を描いていたはずです。女王「雄古」は、祖父・欽明の権力を思うがままに動かし、悪徳の限りをつくして王の地位を手に入れた妖女だったのだ、とかいうトンデモストーリーが展開されていたかもしれません。


 ……ということは。

 卑弥呼や邪馬台国、倭の五王についても、これと同じようなことが言えるのではないでしょうか。


 真実は、本当はまったく別のところにあるのでは?

 ……それを明らかにする方法がないのが、悔しい限りです。

(2017年5月26日)

 

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