斉明西征の子どもたち

で、ブログの更新をほっぽらかしてここんとこ精を出しているのは「年齢表」作り。

古代を生きた人たちの年齢を表にして書きこんでいく。
これを見れば「何年に誰が何歳だったか」が一目でわかるんです。
物語を作るにあたっては、これ、結構大事ね。

エクセルを使うといいですよ、とアドバイスして下さった方がいたので、今までノートに書き込んでいたものを、日がな一日画面に向かい、チキチキと数字を打ち込む日々。


ま、この年齢表作り、なかなかに地道な作業なんだけど、意外なことがわかったりする。


たとえば、大友皇子。

天智天皇亡きあと、近江方を率いて壬申の乱を戦い、ついに敗れて自ら命を絶った悲劇の皇子です。

彼は、天智天皇が采女に生ませた子なんだけど、没年齢(25歳)から計算してみると、彼が生まれたのは648年。大化4年です。

その時天皇だったのは孝徳天皇。
采女というのは天皇に使える女性のことですから、彼女の所有権(?)は孝徳天皇にあったはず。
天智はのちに天皇の位についたので、大友皇子の母が采女だったと言われても何の違和感もなく聞き流してしまいますが、当時の天智(中大兄皇子)はまだ23歳、いくら孝徳の甥とはいっても、采女に手をつけて子どもを生ませたというのは、当時結構なスキャンダルだったことでしょう。
それがのちの「孝徳置き去り事件」の、直接ではないにしろ数多い原因のうちのひとつとなったと考えられなくもありません。

……ま、このあたりのことは昔小説に書いちゃったから、お読みになった方にはとくに目新しい話ではありませんでしたね、スミマセン(汗)



お次は今回初披露。


孝徳亡きあと重祚した斉明天皇は、661年、百済復興のため西征します。
ご存知のとおり、斉明は九州で没し、倭国は白村江で敗戦を喫するわけですが、その西征の最中に生まれた皇子・皇女は4人います。

天武妃・大田皇女が、大伯皇女大津皇子を。
天武妃・鸕野讃良皇女が、草壁皇子を。
天智妃・姪娘が、阿閉皇女を。

西征に出発した斉明7年(661)から白村江敗戦(663)までの間に、この4人の皇子・皇女が生まれています。
大田皇女と鸕野讃良皇女は西征に従ったのは確実なのですが、姪娘については確かなことはわかりません。ただ、阿閉皇女の「阿閉」が、吉備の地名であることから、西征の途上生まれた可能性があるとされています。


この4人を見て感じるのは、何か強い「パワー」。

大津皇子は、ご存知の通り、天武没後に謀反を起こし処刑されました。
彼の母・大田皇女は彼が幼い頃に没しており、天武朝を皇后として支えたのは、大田の妹である鸕野讃良皇女でした。当然、鸕野讃良が生んだ草壁皇子が天武のあとを継いで即位することは、暗黙の了解事項であったことでしょう。年齢的にも、草壁のほうが大津より1歳年長でした。
ところが大津は決起します。事前に姉に会いに伊勢までおもむいたのは、草壁にはない「姉の力」を得るためだったと考えられなくもありません。
腺病質の草壁より、大津のほうが才気煥発だったらしいことを考え合わせてみても、何やら過剰にすら思える大津の自信は、どこから来たものだったのか不思議でなりません。

その草壁皇子は、早世したこともあって、皇位にこそつきませんでしたが、母である鸕野讃良(持統)の熱意もあり、その血統は大変貴重なものとして受け継がれていきました。奈良時代の大半は、今にも絶えようとする彼の血統を、なんとか次代につなげようとする格闘に費やされたと言っても過言ではありません。

阿閉皇女は、草壁皇子の妃となり、彼との間に生まれた首皇子(文武天皇)を皇位につけますが、文武が25歳で没したあと、自ら即位して天皇となります。元明天皇です。
それまでの女帝、推古、皇極・斉明、持統は、皆、「夫が天皇(大王)」だった女性たちでした。3人とも、朝政の場で夫を補佐した実績と実力が買われて即位することができたのです。
ところが阿閉は、「草壁の妃」だったというだけの女性です。即位せずに28歳で早世した草壁は、その晩年は病がちで、朝政に参加することはできなかったと考えられています。だからこそ持統が即位したのです。その草壁の妃にすぎない阿閉が、なぜ即位できたのでしょう。
もちろん、持統が、息子の嫁である阿閉を補佐役として朝政に参加させていたということも考えられます。阿閉その人も、持統のお眼鏡にかなう、有能な女性だったのでしょう。
けれども、文武が没したとき、すでに持統はいませんでした。阿閉は、皇后でも太上天皇でもない、単なる「天皇の生母」にすぎなかったのです。

それでも阿閉は即位しました。
皇后(大后)経験者ではない女性が即位するという前例のない事態を、朝廷に仕える人々が受け入れたのはなぜだったのでしょう。

そこには、阿閉の力量、持統の残光とともに、「人々の口をつぐませるような何か」があったような気がするのです。

それが、あの「西征の最中に生を受けた」という彼女の経歴だったのではないでしょうか。
西征の最中に生を受けた4人。
神功皇后が遠征ののち九州で子(応神天皇)を生んだという伝説と考え合わせると、興味深いものがあります。



……ま、妄想です、妄想。


画面いっぱいに広がる数字をながめながら、こうしてあれこれと妄想を繰り広げる今日この頃。
楽しいっちゃーありゃしない。

(2017年4月21日)

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