良助親王墓

「りょうすけさん」ではない。

「りょうじょ」さん、である。

そもそも、「さん」付けなどおそれ多い。
彼は亀山天皇の皇子、れっきとした皇族なんである。
けれどもここのところ彼のことが身近に感じられてならないので、この項では親しみをこめて「良助さん」と呼ばせていただく。


良助さんのお墓は、飛鳥の山奥、冬野(ふゆの)にある。

そこに彼のお墓があることは、以前から知っていた。斉明天皇の両槻宮の候補地でもある談山神社の南、人の気配も少なそうな山深い地に、忽然と「良助親王墓」があるのだ。

良助親王? 誰やねん、アンタ。

墓の名を初めて見たとき、そう思った。とりあえずネットで調べてみると、彼は13世紀、鎌倉時代を生きた皇子であることがわかった。けれども、それ以上のことはよくわからない。ウィキペディアにも、彼の名前の項は立っていない。そこで、調査をあきらめ、そのまま放置した。私の興味は古代限定なので、鎌倉時代の皇子についてそれ以上調べる気にならなかったのだ。

飛鳥が近いその地は、まさに古代史の宝庫といっていい。鎌足と中大兄が策謀をめぐらしたという談山神社、大豪族蘇我馬子の墓とされる石舞台など、古代史関連の重要な場所が周囲に点在している。そのただなかに、鎌倉時代の皇子とされる良助親王の墓が忽然とあるのだ。

で、彼のことは何も知らないまま歳月が過ぎた。けれども、地図を広げ彼の墓が目に入ってくるたびに、時代劇にフロックコートの紳士がまぎれ込んでいるのを見るような違和感を覚えていた。

どうしてここに、この、古代史のそうそうたる歴史に華やぐこの地に、鎌倉時代の皇子の墓が造られているんだろう?


その疑問が解かれる日が、ついにやってきた。

11月19日に行われた両槻会定例会で、その墓を訪れたのだ。

電波塔のあった冬野の集落から少し下った場所に、その墓はあった。

皇子だけあって、宮内庁が管理しているとのことで、手入れの行き届いた美しい墓だった。
墓に登る石段の前で、中世に詳しいsachiさんとyukaさんが良助親王について詳しく解説をしてくれた。お二人とも妙齢の美女である。こんな美女たちに熱く語ってもらえて、良助親王もさぞかしお喜びのことであろう。

sachiさんとyukaさんは飛鳥遊訪マガジン255号にも寄稿されており、その内容といったら、良助親王に関するここまで詳しい記事は今までネットには見当たらなかった。(今まで自分が飛鳥遊訪マガジンに寄稿してきた駄文を思って、穴があったら入りたい思いの梅前であった)


お二人の記事によれば、良助親王(1268~1318)は亀山天皇の皇子で、11歳のときに出家している。彼を「良助『法』親王」とも呼ぶのはそのためだ。

皇統が、後深草天皇から始まる北朝(持明院統)と、亀山天皇から始まる南朝(大覚寺統)とに分裂し、二つの皇統の間を権力が彷徨していた時代、亀山天皇の皇子として生まれた良助法親王の人生は、権力闘争に翻弄されたものであったらしい。
持明院統のブレーンとして活躍していた西園寺実兼が、持明院統を見限り、今度は大覚寺統の皇子を即位させようと奔走した際、良助法親王が政治的に利用された気配があるようだ。詳しい年月日はわからないが、良助法親王は西園寺実兼の養子になっている。そして、良助法親王が天台座主に就任する前年、のちに後二条天皇となる大覚寺統の皇子が、実兼の力により立太子している。後二条天皇の即位は、良助法親王の天台座主在任中であった。こうしたことから、良助法親王の天台座主就任は、比叡山を取り込むためのものであったとも考えられる。

父である亀山法皇が崩じた年、良助法親王は天台座主を降り、そののち妙楽寺(多武峰)に移ったという。天台座主まで務めた人物が、比叡山の末寺である妙楽寺に移ったのは、政争に敗れた結果なのか、それとも彼自身が選んだ道なのか、今となってはわからない。ともかく、彼は多武峰にこもり、多くの仏教書を著し晩年を過ごしたらしい。彼が多武峰に近いここ冬野に葬られたのは、そうした経緯があったからのようだ。


‥‥なるほどね。

フロックコートの紳士は、なかなか険しい人生を送られた方のようなのだ。

権力と陰謀渦巻くただなかに生まれ、利用されつくした法親王。
多武峰で過ごした彼の晩年が、穏やかで満ち足りたものであったことを願う。


鎌倉時代という畑違いの話が、脳みそツルツルの梅前の頭にスムーズに入ってきたのには、sachiさんとyukaさんの巧みな話術もさることながら、実はもうひとつ理由があった。

もうずいぶんと前のことになるが、「とはずがたり」という本を読んでいたのだ。

「とはずがたり」については、当時このブログでも書いたことがある。
興味のある方は本をお読みいただくとして、そりゃまあ大変な内容だった。主人公である「二条」は、若き日に西園寺実兼と恋をし、その後後深草天皇のもとに出仕して、さまざまな恋愛遍歴を重ねていくのだ。その遍歴の中には、後深草天皇はもちろんのこと、彼の弟である性助法親王、さらには亀山天皇も含まれている。
彼女は複数の男性との間に何人かの子を生むが、西園寺実兼との間に生まれた娘は実兼に引き取られ、のちに亀山天皇の内裏に上がっている。つまり、知らぬこととはいいながら、亀山天皇はかつての恋人の娘と通じてしまったというわけだが、その入内が大覚寺統に取り入ろうとする実兼の思惑によるものだったとするならば、実兼のその行動は犬畜生にも劣ると言わざるを得ない。

さらに言えば、後深草天皇、亀山天皇、性助法親王はみな、後嵯峨天皇の皇子、つまり兄弟だ。いくら倫理観が現代とは異なるとはいっても、兄弟すべてと関係を持った二条には、同じ女として全く共感できない。

まあ、そんなこんなでそちらのお話のほうを先に知っていたので、今回の登場人物たちの名前には聞き覚えがあった。物語に登場しなかったのは、当の良助さんだけだったといっていい。
なので、西園寺実兼と聞けば「ああ、『雪の曙』ね」、後深草天皇と聞けば「とんでもないエロおやじ」、と、かなり明確に顔かたちを想像できたので、スムーズに話が頭に入ってきたというわけだ。
たとえていえば、キャバクラに遊びに来ていたスケベなオヤジたちが、実はこの国の政財界を陰で動かす大立者だったことを知った、って感じでしょうか。

中でも強烈なのは性助法親王で、彼は二条に粘着し、出家の身でありながらストーカー的な行動をとり続けたあげく、悶死といっていいほどの死を迎える。

彼は良助さんからすると叔父にあたるが、同じ「法親王」とはいっても、冬野の地に穏やかに眠る良助さんと較べると、まさに水と油のような対照的な印象を受ける。

いや、yukaさんのお話によれば、談山神社所蔵の「日輪御影」という絵画に描かれた「勝軍地蔵」の化身とされる人物を良助法親王に否定する説があるというから、彼も存外、激しいものを内に秘めた人だったのかもしれない。
冬野のあたりが山城であったと想定されているように、多武峰一帯は戦乱が多く起こった地でもあった。彼がもともとそういう激しい性格であったのか、それとも法親王という高貴な立場にかこつけられたか、それは今となってはわからないが、権力闘争のあげくに多武峰に隠棲した法親王が、勝軍地蔵のイメージ喚起に利用されたことだけは事実であったようだ。
後深草天皇や亀山天皇、性助法親王や西園寺実兼などは、物を書く性悪な(とあえて言わせていただきましょう)女に赤裸々な手記を書かれ、その性癖が後世に伝えられてしまったが、同じ時代を生きた良助法親王も、そうした記録が残されていないだけで、存外激しい恋や陰謀に自ら身を置いた人だったのかもしれない。

ふふふ。ご想像におまかせしますよ。

そう言って微笑む良助さん。
やっぱり彼には、冬野の地にふさわしい、穏やかな人柄が似つかわしい。もちろんそれも、こちらの思い込みに過ぎないのだけれど。



定例会のあとに行われた打ち上げも無事終わり、大和八木への車の中で再び良助法親王について熱く語り始めるsachiさん。

‥‥ああ、いいな、と思う。

大昔に生きた人々について、こうして熱く語り合える仲間と時間。それに恵まれたことが、とても嬉しい。


これからは、地図に「良助親王墓」を見かけたら、「ああ、良助さん」と懐かしいような気持ちになることだろう。それもこれも皆、sachiさんとyukaさんの文章とお話、そして彼女らにめぐり会わせてくれた両槻会のおかげである。

(2016年12月15日)

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