天空の里をゆく

11月19日(土)(2016年)、両槻会定例会に参加し、談山神社から冬野、尾曾へと抜ける道を歩いてきた。

 当日は日本全国雨、特に近畿地方は降水確率80パーセントとの予報だったので、覚悟を決めて雨用ジャンパーにオーバーズボン、さらには雨ガッパまで持参して臨んだが、意外や意外、朝、集合場所の桜井駅に近づくにつれ雨脚が弱まり、薄日まで射してきた。
 両槻会ではこうした現象を「事務局長のご人徳」として崇めているという。ありがたいことである。

 事務局長・風人さんの尊顔に二礼二拍手したあと、バスにて談山神社に向け出発。紅葉シーズンまっさかりの土曜日だというのに、雨の予報もあってか、予想に反しバスはガラガラ。これも神通力のおかげか。



 談山神社11月

 先月8日に来た時には緑だった山が、見事な紅や黄に染まっている。


 談山神社10月
 こちらは先月の談山神社。


 先月は西門から藤本山に向かったが、今回は分岐を左に。
 険しく細い山道であるが、「冬野越え」のこの道は、明治末期まで吉野へのルートとして使われていたという。本居宣長はこの道の印象を、「吉野へは この門のもとより 左にをれて 別れゆく はるかに山路をのぼりゆきて 手向に茶屋あり やまとの國中見えわたる所也」と『菅笠日記』に残している。(両槻会定例会資料より。)
 私のイメージでは飛鳥からかなりの距離があるように思える吉野だが、この道を通ると存外近いらしい。やはり、机上で地図を見て想像するのと、その場所を実際に歩いて体感するのとはまったく異なる。

 配布された資料によれば、昔は紀州沖で獲れた魚を、吉野を経由してこの道を通り、桜井まで運んでいたという。特に鯖は、運ぶ間に塩が効いて美味になり、大変重宝されたらしい。若狭から京都へ向かう鯖街道は有名だが、熊野から桜井に通じるこの道もまた「鯖街道」であったのだ。


 冬野の集落の手前に、水がわき出している場所があり、「冬野の名水 おいしいよ」と木の板にマジックで書いた看板が立てかけられている。下に名前が記されてあるところを見ると、子どもたちの手作りか。ほほえましく、かわいらしい。すすめに従い、置かれていたコップで水をいただく。飛鳥川の源流となるその水は、くせのない柔らかな味がした。


 往時は物資や人の行き交う街道の拠点であった冬野だが、現在は定住する人はないそうだ。だが、今も定期的に人が通ってきているのだろう、荒れた印象はまったくない。
 集落の先に、電波塔が建っている。この頂の目印となる建造物だ。

 電波塔


 この冬野の頂が、古代、飛鳥から何らかの信仰をもって仰ぎ見られていたのではないか、という説がある。飛鳥から見ると、冬至の朝、この頂から日が昇るからである。
 だがそれは計算上のことで、実際には、間にある丘陵が邪魔をして、飛鳥のかなり狭い範囲からしかこの頂を仰ぎ見ることはできない。それが判明して、冬至の日に飛鳥からこの頂を拝し何らかの祭祀を行ったのではないか、という説はあえなく潰えてしまったのだが、それまでの間、山岳ソフトで検証を行ったり、飛鳥のどのあたりからならこの頂が見えるかを風人さんに実際に歩いて確かめていただいたりし、なかなかに心躍るひとときを過ごした。
 その際に目印となったのが、この電波塔であった。私が今回の両槻会定例会に遠路東京から参加したのは、電波塔の姿を実際にこの目に収めるためでもあった。

 風人さんの実地踏査及び山岳ソフトでの検証により、飛鳥の、当時宮が置かれていたあたりからはこの頂は見えないことが判明したものの、この頂が飛鳥から見て「冬至の太陽」が昇る方向にあったことは間違いがない。従って、実際に見える見えないにかかわらず、当時の人々にとってこの地は「特別な場所」として認識されていたとも考えられる。そうした場所であるからには、ここに斉明天皇が建造を指示したとされる「両槻宮」が置かれた可能性は否定できない。
 先月藤本山へ行った際、その展望のあまりの素晴らしさに、両槻宮が建てられたのはそこしかないと思ったが、この冬野の地もまた、私にとっていまだ捨てがたい両槻宮候補地である。

 そんなわけで、冬野の電波塔をこの目で見られた時は、山道を登ってきた疲れも一気に吹き飛んだ。塔の上に登ればさぞかし見晴らしがよかろうと思ったが、気配を察した風人さんに制止され、やむなく断念したのは残念でならない。


 電波塔のかたわらに、波多神社という神社が鎮座している。
 波多は、秦、畑、羽田にも通じる、興味深い地名だ。日本書紀推古20年にも羽田で薬猟を催したとの記載があり、その羽田は別の地に比定されてはいるものの、この波多神社にも薬に関する伝承が残るという。渡来人との関連も考え合わせると、無視できない地名である。
 さらに、神社・仏閣というのは、何らかのいわれのある場所に建てられているという私の考えからすると、この冬野の頂に立つ波多神社は見過ごせない。神社仏閣が建設されるのは、そこに何かが建っていた、あるいは何かが行われたという記憶が伝承された地であることが多いからだ。

 その波多神社の前まで来たときのことだった。

 電波塔がガチャガチャと鳴り響き、地面が揺れ始めた。
 和歌山県南部を震源とする、最大震度4の地震だった。

 多武峰は、国家の変事にあたり鳴動するという。
 この鳴動は何を告げるものなのか。
 あるいは、秘密を暴かれまいとする冬野の頂が、その怒りを現したか。それとも、それを言祝いだか。



 風人さんの説明によれば、この冬野のあたりは中世に城砦が築かれていたという。延暦寺と関係の深かった多武峰は、興福寺と対立しており、平安時代末からたびたび討伐や焼討に遭ったらしく、その防衛のため築かれたものであるらしい。この冬野を含め、談山神社のある御破裂山地区、念誦掘地区、岡道地区の4地点は、こうした城砦が築かれていたと考えられているという。

私は、城砦があったとされるこの4地点すべてが、両槻宮の候補地だと考えています。

と、風人さんは言った。
 確かに、宗教施設だったか防衛施設だったかに関わらず、両槻宮が造営された場所は、そうした施設を置くにふさわしい防衛力と権威を備えた地だったはずだ。さらに、宮を築くにあたっては人の手が入り、地面をならすなどの整備が行われたことだろう。中世に至り、この地に城砦を築こうとした人々が、そうした土地を利用しなかったはずはない。

 となると、「両槻宮はどこにあったか」に対する答えは、たぶん永遠に見つからない。両槻宮のあった場所に中世の城砦が築かれたとすれば、その築城作業のうちに、古代の遺構は破壊されてしまったはずだからだ。発掘調査を行っても古代の遺構を検出することは難しいだろう。

 だが、それでもいいと私は思っている。
 謎は謎のままに。これとは断定せずに、それぞれの説を深く掘り下げ、どれが真実かを推定し、議論する。それこそが、古代史の醍醐味ではないか。邪馬台国所在地論争をみてもわかるように、他の時代にはない説の多さ、多彩さこそが、古代史の最大の楽しみだと私は思っている。
 その際に重要なのは、他の説を頭ごなしに否定しないことだ。
 自分が信じる説を持つのはいい。自説を持たないと楽しめないのもまた古代史だからだ。だが、自らの説を「正論」と信じるあまり、別の説をけんか腰に否定する人の、なんと多いことか。中には、まるで悪魔を折伏するかのように自らが信じる説を押し付けてくる人もいる。そういう人は、自説のみを正義と信じ、それ以外の考えをまったく受け付けないからたちが悪い。
 可哀想だなぁ、と思う。もっと心を広く持ち、さまざまな説に耳を傾け、そうか、そんな考え方もあるのかとワクワクしたら、もっともっと古代史を楽しめるのに。知識の量を鼻にかけ他人の説を頭ごなしに否定する頑固ジジイではなく、多少無知ではあっても何にでも好奇心を向け、目をキラキラさせる子どもでありたいと私は常に願っている。
 だから風人さんの「4カ所すべてに両槻宮の可能性がある」という言葉を聞いた時は嬉しかった。両槻会は10周年を迎えるというが、こうした会が10年も続いてきたのは、事務局の面々のたゆまぬ努力もさることながら、さまざまな説を受け入れる柔軟な視点と、何にでもワクワクする気持ちゆえだろう。
 もちろん、奇をてらっただけの「トンデモ説」は別だけれど、地道な研究に基づいたものであれば、どの説も尊重し、どの説も否定しない。それが、古代史に向かう正しい姿勢であろうと私は思う。


 昼食のあと冬野をあとにし、尾曾を経て石舞台へと下る。




 尾曾の紅葉

 見事な紅葉。

 
 銀杏

 黄色く色づく銀杏。
 雲はたたなずく山々を幽玄に彩るのみで、結局、雨をほとんど降らせなかった。


 この、奇跡の一日に感謝を捧げるのみである。

(2016年11月24日)

 

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