もう一人の留学生~井真成

 阿倍仲麻呂を乗せ唐に向かった船が、一人の欠員も出すことなく日本に戻り、遣唐使史上の快挙と呼ばれたことは前回述べた。
 その時仲麻呂とともに留学した若者の一人が、それから1300年後の21世紀に突如としてその名を世に広く知られることになろうとは、その船に乗っていた誰一人として夢にも思わなかったに違いない。


 彼の中国名は井真成。 日本名は、不明である。


 2004年10月、西安郊外で彼の墓誌が発見され、大きな話題を呼んだことは、我々の記憶に新しい。

 その墓誌の内容は以下の通りだ。

姓は井、字(あざな)は真成。国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠くにやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。
ところが思わぬことに、急に病気になり、開元22年(734年)の1月に官舎で没した。36歳。
皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬した。
彼の体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない。(抜粋)


 この「井真成」が誰なのかについては諸説あり、まだはっきりとわかっていない。
 確かなことは、年齢と経歴からみて、阿倍仲麻呂と同じ船で入唐した留学生であったこと、そして彼と同じ年齢だったことである。

 遣唐使船に乗った人間全員の名前が記録されていればその中からそれらしき人物をピックアップできるのだろうが、残念ながら乗船名簿は残っていない。となると井真成という中国名から日本名を推測するしかないのだが、これがなかなか難しい。

 日本人が中国名を名乗ったケースは多々ある。古いところでは小野妹子が「蘇因高」と名乗ったと記録されている。前回取り上げた阿倍仲麻呂の中国名は「朝衡」だ。
 私が小説に書いたことのある高向黒麻呂の中国名は「玄理」といった。これは「くろ=玄(玄人さんのくろ、ですね)」と「まろ=理」を組み合わせた、比較的わかりやすい中国名だが、「蘇因高」や「朝衝」から日本名を推測するのはほとんど不可能といっていいだろう。 
 中には、仲麻呂とともに日本に帰ろうとして遭難し、唐に残った藤原清河が「川清」と名乗ったというわかりやすい中国名もあるが、唐に渡った日本人のほとんどは、元の名を推測しづらい中国名を名乗っている。蘇因高も朝衝も、しっかりとした記録に残っているからこそ、小野妹子や阿倍仲麻呂のことだとわかるのである。

 従って、「井真成」にしても、それがどれくらい日本名と似通っているのかわからない以上、そこから本名を推測するのは難しい。
 現在言われているのは、「井」が「葛井」、あるいは「井上」という姓をあらわし、「真成」が名をあらわすという説である。もしそうであるとすれば、彼は「葛井真成(ふじいのまなり)」あるいは「井上真成(いのうえのまなり)」という名だったことになる。ただし、彼が「川清」式の単純な命名法を採用していればの話だ。

 「葛井」あるいは「井上」だったとすれば、彼は渡来系の人物だったということになり、阿倍家の名を背負い、傔人(お付きの者)まで連れて遣唐使船に乗り組んだ仲麻呂とは、家格に雲泥の差があったはずだ。

 しかし、先ほども述べたように、没年から逆算すると彼は仲麻呂と同年齢であり、同じ留学生という立場にあった。太学でともに学び、唐の朝廷に仕えたという二人に、交流がなかったとは考えられない。想像をたくましくするならば、彼らは若き日々をともに過ごした仲間であり、苦悩や喜びをわかちあった盟友であったとも考えられよう。彼が没したとき、皇帝の命によって特別な扱いで埋葬されたという経緯には、皇帝の側近であった仲麻呂の意志が働いた可能性もある。


 井真成が36歳の若さで長安に没したのは、開元22年(734年)正月のことで、その葬儀は2月4日に行われたと墓誌に記されている。

 ところが、そのまったく同じ時期に、日本からの遣唐使が16年ぶりに唐にやってきていたのだ。
 本来ならば、井真成は長安で彼ら遣唐使と会うことができ、せめて名残の一言なりを日本で待つ人に伝えることができただろう。

 だが、運命は残酷だった。

 その頃、長安近郊が飢饉にみまわれ、皇帝玄宗は東都洛陽に移っていた。井真成が病臥したとされる頃、皇帝との謁見を願う遣唐使たちは、長安ではなく洛陽に向かうため、揚州で待機していたのだ。
 もしもそのとき皇帝が長安にいたなら、733年4月に難波津を発ったとされる遣唐使一行は、まっすぐに長安に向かい、年内には到着していたことだろう。井真成がいつ頃病臥したのかはわからないが、翌年正月だったという臨終には十分間に合ったはずだ。
 しかし、遣唐使は揚州で足止めを余儀なくされ、井真成は彼らに会うことなく世を去った。
 唐の人々も彼を哀れに思ったのだろう。盛大な葬儀をとりおこない、彼の死を悼んだ。

 そのとき仲麻呂がどこでどうしていたのかはわかっていない。皇帝の側近として洛陽に赴き、そこで彼の死を知ったのかもしれない。あるいは長安に残り、友の死をみとったか。
 いずれにせよ、井真成の死に、彼が衝撃を受けたことは想像に難くない。井真成の葬儀が終わった4日後の2月8日、「羽吉満」(仲麻呂の傔人羽栗吉麻呂のこととする説がある)という者が、経典を持って長安を発ち、それを日本からの遣唐使に託したと伝えられている。諸説あるが、それが羽栗吉麻呂だったとするならば、それはまさしく、井真成の死を遣唐使に知らせるためのものだったはずだ。
 その時「羽吉満」が伝えた経典は、石山寺に伝わる「遺教経(ゆいぎょうきょう)」であることが、その奥書に記されている。



 井真成が誰だったにせよ、彼の望郷の念、そして無念を思うと、胸がしめつけられる。

 きっと、唐に屍を埋めた、あまたの「井真成」がいたに違いない。彼らの犠牲の上に、膨大な書物や思想の輸入がなされ、日本独自の文化が花開いたのだ。
 そして、彼の墓誌の発見は、そうした留学生や遣唐使たちがかの地に埋めた夢と希望が、彼らの強い願いがかない、1300年の時をへて掘り起されたものと考えることができはしないだろうか。



 井真成の墓誌の最後には、次のように記されている。

  哀茲遠方 形旣埋于異土 魂庶歸于故鄕

 (哀しきはこれ遠方なること。体は既に異土に埋もれ、魂は故郷に帰らんことを庶(こいねが)うと。)

(2016年1月21日)

 

古代史
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