阿倍仲麻呂

天の原 ふりさけ見れば春日なる  三笠の山に出でし月かも


 ご存知の通りこれは、ついに日本に帰ることなく唐で没した遣唐留学生・阿倍仲麻呂の、あまりにも有名な望郷の歌である。


 ここに出てくるのがなぜ「三笠の山」なのか、私はかねがね不思議に思っていた。平城京に近い山は三笠山以外にもたくさんあるからだ。 遠い唐から日本を忍ぶなら、三笠山に限定せずともよかったはずだ。

 けれども先日、続日本紀をめくっていてその謎が解けた。

 阿倍仲麻呂が乗った717年(養老元年)出発の遣唐使たちは、出発前の2月1日、

「蓋山の南」

において祠神祇、つまり道中の安全を祈る祭祀に参列しているのだ。そしてこの「蓋山」こそ、三笠山だったというわけである。

 そこでどのような祭祀が行われたのかは定かではない。しかし、遣唐という、国をあげての大事業の安全を祈願するものであり、正式な歴史書にも記されていることからみて、大変盛大、かつ厳粛な儀式が行われたであろうことは想像に難くない。


 当時仲麻呂は19歳。この大事業にあたり、大豪族・阿倍家を代表して船に乗り組む、若きエリートであった。

 実はこの遣唐では当初、阿倍安麻呂(あべのやすまろ)という人物が大使として任命されていた。それが任命からひと月もたたないうちに大伴山守(おおとものやまもり)に変更された。古くからの豪族として共に名を知られる大伴氏に大使の座を明け渡したからには、阿倍氏としては何としてでも一族の者を船に乗せる必要があったのだ。(ちなみにこの時の副使は、藤原不比等の息子であり、藤原京家の祖として知られる藤原宇合(ふじわらのうまかい)である)
 阿倍安麻呂が大使の任を解かれた理由は明らかにされていない。しかし、安麻呂の名がその後も続日本紀に登場することからみて、政治的失脚ではないようだ。通説となっているように彼が斉明朝に活躍した阿倍比羅夫の息子であったなら、彼は50代後半か60代にはなっていたはずで、大使交代の理由も、高齢、あるいは健康上の理由によるものと推測される。
 ともあれ、大使の交代によって、その遣唐使においては19歳の仲麻呂が阿倍家筆頭ということになった。彼は唐に長期滞在して学問を修める留学生(るがくしょう)という立場ではあったが、傔人(ともびと=お付きの者)を連れて唐に向かうことを許されていたことからもわかるように、他の留学生たちとは別格の扱いを受けていた。従って、出発前に三笠山麓で行われた祭祀においても仲麻呂は、その家格の高さからして他の留学生たちとは異なる、一段上の場所に座を占めていたに違いない。


 19歳とはいっても、数えであるから、現代でいえば大学に入るか入らないかくらいの年齢だ。けれども古代においては、19歳といえばもう立派な大人であった。
 想いを寄せる女性もいたに違いない。その祭祀の席に彼女がいたかどうかはわからないが、三笠山にさし昇る月を、これからの長い歳月を唐で過ごすさだめを負った若き仲麻呂は、胸絞られる思いで見上げたはずだ。


 その祭祀を終えてのち、仲麻呂ら一行は難波津を出航した。正確な出発日は不明だが、唐側の記録によれば、その年の10月1日に長安に到着したとされている。
 唐皇帝に拝謁した一行は、仲麻呂ら留学生・留学僧らを長安に残し帰途についた。彼らは718年10月20日に大宰府に到着、12月13日に平城京に無事帰着している。大量の書物を持ち帰ったとされるこの遣唐使は、「略闕乏なし(ほぼけつぼうなし)」つまり一人の犠牲者も出さずに唐との往復をなしとげた、遣唐使史上の快挙とされている。


 唐に残った仲麻呂は、その後「太学」に入学し、学問を修めたらしい。彼は721年には校書(朝廷の書物を管理する役職)に抜擢され、その後も順調に昇進をとげていく。


 仲麻呂が唐にやってきてから16年後の733年、日本から再び遣唐使がやってきた。
 唐側の記録によれば、仲麻呂は「名を唐風に改め、皇帝は帰国することを許したが、彼の意志で唐に留まり続けた」とされている。しかし、古今和歌集には「親が年老いたので帰国したいと願い出たが許されなかった」とある。

 どちらが本当かはわからない。たぶん、彼の中にも矛盾した気持ちが並立していたのだろう。
 小説家風に想像をたくましくするならば、仲麻呂はこの時、やってきた遣唐使からある情報を得、それによってそれまで抱いていた帰国の意を翻したのではないだろうか。「親が年老いた」とあるからには、この時点では彼の親は存命していたはずで、親兄弟に関わることでないならば、彼の翻意の原因は別のこと、そう、彼の「想い人」の動向に関わることだったとも考えられる。

 もちろん、単なる想像である。
 だが、目の前に帰国の道(それも日本からの正式な使いによる正当なもの)が開かれているというのに、それを断るというのはただごとではない。仲麻呂の前の回の遣唐使船に乗って入唐した留学僧に弁正という人物がいるが、彼は唐で妻をめとり、ついに日本に帰ることなく唐で没した。彼の「日本よりも唐がいい」という確固たる姿勢にくらべ、仲麻呂にはそうした「唐人化」が感じられない。こちらの思い込みかもしれないが、仲麻呂のベクトルは終生、日本に向いていたような気がするのだ。


 ともあれ、35歳になっていたはずの仲麻呂は、日本への帰国を見送った。彼はその後も皇帝の側近として順調な出世をとげていく。


 次に遣唐使が来たのは、その19年後の752年。

 この時やってきた遣唐副使は、仲麻呂とともに留学し、その後帰国した吉備真備である。彼や大使とどのような折衝があったのかは不明だが、54歳になっていた仲麻呂は、ついに日本に帰ることを決意する。

 彼は、日本への出港地である明州で、冬空にさし昇る満月を見、あの歌を詠んだ。


天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも


 だが、仲麻呂を待っていた運命は過酷だった。彼の乗った船は沖縄に漂着後座礁、季節風に押し流されて漂流し、現在のベトナム北部にたどり着いたとされている。その地で仲麻呂らは船と乗組員のほとんどを失い、命からがら長安に戻ることになった。

 仲麻呂が戻った唐は、タラス河畔の戦いによってイスラムに敗北し、続く安禄山の乱、楊貴妃の自害により、緩やかな衰退の時を迎えていた。

 仲麻呂は770年、72歳でその生涯を終える。
 異国の地で迎えた終焉の時、彼はどのような思いをもって瞑目したのだろうか。唐人としての限りない誇りを胸に、悔いなき人生と満足して旅立ったか。それとも、最後に彼の目に映ったのは、ついに帰ることのなかった日本の、あの三笠山の上空にさし昇った月だったか。


 それを知る者は誰もない。私たちはただ、皓々と照り映える月を詠んだあの歌によって、彼の心情をおしはかるばかりである。

(2016年1月14日)

 

古代史
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