もうひとつの「壬申の乱」

 4月に刊行した本の中で私は、壬申の乱が「倭国の独立戦争」だったと書いた。白村江で唐と新羅の連合軍に敗れた倭国は、距離的なこともあり緩やかながら唐の支配下に置かれており、そこから脱出し、真の独立を手にするために大海人皇子が起こした戦乱こそが壬申の乱だったというストーリーである。
 小説は、戦の勝利を予感した大海人皇子が、この国の名を「日本」にすると高らかに宣言するところで終幕とした。この小説は建国を目指した人々の生きざまを主題としたものであったので、そうしたエンディングが最もふさわしいと考えたからである。(一部の読者からは「壬申の乱のくだりは余計だった」とのご批判もいただいたが)
 だが、今になって、

唐に与(くみ)していたのは、実は大海人のほうではなかったか

という疑惑が、私の心にきざしている。
 倭国の真の独立を目指していたのは壬申の乱で敗れ去った大友皇子のほうで、大海人は唐の協力を得て彼を葬り去ったのではないか。
 私の小説世界を根底からくつがえす、恐ろしい疑惑である。

 もちろん、小説を書くにあたっては、さまざまな史料を精査し、壬申の乱について書かれた本を山ほど読んだ上で設定を決めた。壬申の乱を唐の支配から逃れるための(支配という言葉が強すぎるならば、影響から抜け出すための)戦乱と位置づけたのは、それなりの根拠があってのことだ。
 けれど私が気になるのは、

大友皇子の「首」が大海人のもとに届けられた

という日本書紀の記述である。
 敗北を悟った大友皇子は山前(やまさき)で自害して果てた。その首が斬り落とされ、大海人皇子のもとへ届けられたというのだ。
 戦国時代にはよくある話ではあるが、敗将の首が敵方の大将のもとへ届けられたのは、日本の歴史上これが初めてのケースである。ましてや大友皇子は大王として即位したとまでされる皇族だ。私は他の時代については全く詳しくないのでわからないが、首を斬り落とされた皇族というのは他に例があるのだろうか。
 もちろんそれまでの倭国にも「首を切り離す」という刑罰は存在した。謀反の罪で自害に追い込まれた蘇我倉石川麻呂は、死後に首を斬り落とされている。死罪という重罰の中でも、それが最も重い刑罰とされていたからだ。
 ちなみに、石川麻呂の刑罰の執行にあたったのは物部二田塩である。大友皇子の最期に立会い、彼の首を斬り落として大海人皇子のもとへ届けたのは物部連麻呂という男だった。物部氏の伝統的な職掌として、そうした刑の執行があったようだ。
 しかし、斬り落とした首を誰かのもとへ届けたという記録は倭国のそれまでの歴史にはない。敵方の大将による敗者の首実検というのは、壬申の乱が初めてなのだ。
 それまで倭国にはなかったそうした「風習」は、唐からもたらされたものと思われる。
 漢字学者・白川静氏の著作によれば、漢字には「斬り落とされた首」を表すものが多い。たとえば「道」という漢字になぜ「首」という部首が含まれているかというと、生首を持って歩く様子から造られた漢字だからだという。外界に通じる道には邪悪な霊がひそんでいると考えられており、それを払うために異族の首を斬って手に持ち進んだというのである。また、「県」という漢字も、首を逆さにして木にかけたところを表しているという。県の下(脚)の部分は垂れ下がった髪の毛だというから恐ろしい。
 そうした「斬首」の風習が中国からもたらされたものだとしたら、首実検を最初に実行した大海人皇子は、そうした風習に精通していたと言えるだろう。もしかしたらそれを行うよう勧めたブレーンの存在があったのかもしれない。あるいは、これからはこうしたやり方で国を治めていくのだという最初のアピールだった可能性もある。そこに何か強烈なメッセージが含まれてはいないか。

 また、戦闘にあたって大海人軍が「赤い布を目印にした」というのも気になる話だ。赤い布を衣の上に付け、味方の目印としたというのだ。それは最新鋭の戦法といっていいだろう。それがどこからもたらされたかといえば、やはり唐以外にはありえない。
 もちろん、大友皇子側も、「金」という合言葉を使ったり、馬や人に板をかませ気配を消して行軍したりと、最新の戦法を導入しているふしはある。だが、「金」というのは、天智朝の右大臣で、壬申の乱後死罪になった中臣連金の名前でもある。遠山美都男氏は、「時の最高権力者の実名をこのように露骨に呼び捨てにしたとは考えられない」(中公新書「壬申の乱」P218)として、合言葉は別の言葉だったのではないかと推測している。だが、実際に「金」という言葉が使われたと仮定するなら、それを使ったのは大友軍ではなく大海人軍であったという可能性も排除できない。

 さらに私が引っかかるのは、日本書紀斉明6年10月条に見える「唐の捕虜百余人を美濃国の不破・片県(かたあがた)に住まわせた」という記事である。
 この「捕虜」というのは、韓半島における百済と新羅・唐との戦いの際に捕縛された者たちだ。百済重臣によって倭国に連れてこられた彼らは、それから壬申の乱発生まで10年以上の歳月を不破周辺で過ごしていた。
 壬申の乱の経過をみると、大海人皇子が「不破」に異様なまでのこだわりを持っているのがわかる。吉野を脱出し、紀伊半島を北上する大海人皇子の目的地は、不破に他ならなかった。そして、不破にたどりついた大海人は、軍事行動の全権を高市皇子に委譲し、自らはそこにとどまった。彼がそこを離れるのは乱の終結後一か月以上たってからのことである。
 もちろん不破は交通の要衝である。そこは東国との境であり、大友皇子が徴集した兵たちもそこを通って近江に馳せ参じることになっていた。従って、そこをおさえれば大友軍の兵の増強を食い止めることができたのは事実である。実際に大海人は、尾張から2万の兵を率いてきた小子部鉏鉤(ちいさこべのさひち)を自らの陣営に寝返らせることに成功している。(ちなみにこの小子部鉏鉤は壬申の乱終結後自殺している)
 だが、大海人が不破に固執したのは本当にそれだけの理由だったのだろうか。
 「釈日本紀」の引く「調連淡海(つきのむらじおうみ)日記」「安斗智徳(あとのちとこ)日記」によれば、大海人は不破に住んでいた唐人たちを召し、戦術についてたずねたという。唐人からは満足のいく答えは得られなかったというが、そこで高市皇子への全権委任、つまりその後の戦闘の具体的な青写真が描かれたと思われることからみて、不破が重要なターニングポイントになったのは間違いのないところだろう。唐人との面会を日本書紀が黙殺しているのも気になるところだ。

 もちろん真相はわからない。私としても、壬申の乱が唐の影響下からの脱出という側面を持っていたことを否定したくない。それを否定し大海人を唐に与していた人間と断定してしまえば、私の小説世界は崩壊するからだ。だが、今までにあげたいくつかのことが、小さなとげのように心に引っかかって離れない。
 壬申の乱後、天武天皇として即位した大海人が、唐のものを積極的に導入したのは、優れたものはそれがどこのものであろうと取り上げるという方針によるものと私は考えていたが、本当にそうなのか。
 讃良皇女(持統)が、天武の崩御後即刻といってもいいほど素早く大津皇子を粛清したのは、大津が天武のそうした方針を踏襲しようとしたからではないのか。夫婦愛を取りざたされる天武皇后・讃良皇女は実は、夫・天武のすることを苦々しく眺めていたのではないか。彼女が理想としたのは、父である天智が行い、大友が受け継ごうとした政策だったのではないか。壬申の乱において大友側についていた田辺臣のもとで養育されていた藤原不比等が、持統の時代になって突然伸長してくるのも気になるところだ。

 ……私が今まで頭の中で作り上げてきた古代の世界とは全く異なる世界がそこにある。どちらが真実で、どちらが間違っているのか、誰にもわからない。この混沌とした海は、私の乗った小舟を波に呑み込み崩壊させ、それでもなお私を惹きつけてやまない魔力に満ちている。

 

(2015年8月20日)

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