継体天皇の正体について

 ここのところ、「継体天皇」という人物について、あれこれと考えをめぐらせている。

 皆さんすでにご存じの通り、継体天皇とは、506年に武烈天皇が没したあと、武烈に子がなく、他に王統を継ぐべき皇子も存在しなかったため、重臣・大伴金村らに擁立され、越の国から迎えられて即位したとされる天皇である。応神天皇五世の孫を称していた継体は、武烈の姉である手白香皇女を妃とし、彼らの間に生まれたのが、その後の天皇家の始祖とされる欽明天皇である。

 「応神天皇五世の孫」という、あまりに遠い系譜から、そこで「王朝の交代」があったとする説もある。大阪湾沿いに巨大な古墳をいくつも造り、中国南朝に使いを送って倭国王として冊封された、いわゆる「倭の五王」の王朝はそこで途絶え、まったく新しい王朝が始まったとする説である。

 「河内王朝」ともいわれる倭の五王の王朝は、内部で争いが絶えなかった。王の位を手にするために、兄弟、従兄弟同士で争い、失脚させ、殺し合った。その結果、王統を継ぐ皇子がいなくなってしまったのである。
 古事記は、武烈が没したことを記したのち、「日継知らす可き王無し(ひつぎしらすべきみこなし)」と伝えている。

 そこに登場したのが継体である。彼は重臣たちの懇願を受け、越の国から樟葉宮に入り即位したということになっている。だが、筒城、弟国を経て、彼がヤマト朝廷の本拠地とされる磐余に宮を遷すのは、即位後20年もたってからのことだ。

 なぜそんなに時間がかかったのかについては、やはり彼の出自に原因を求める説が根強い。「応神天皇五世の孫」などという正体不明の男をヤマトの王とするには、それなりの時間が必要だったのだ、と。

 ‥‥だが、本当にそうだろうか。
 継体は、「重臣たちにかつがれ、越の国からやってきた、正体不明の男」にすぎなかったのだろうか。

 いや、そうではなかったのではないか。
 最近になって、私はそう考えるようになった。


 「古代史の謎は『海路』で解ける」(長野正孝著・PHP新書)によれば、古代、日本海側には、翡翠と鉄を交易する海運ネットワークが存在したという。
 当時の船はもちろん手漕ぎで、夜は港に船を上げ、漕ぎ手を休ませ、食料と水を供給する必要があった。日本海側にはそうした「寄港地」が数多く整備され、富山付近で産出された翡翠と、朝鮮半島から対馬、九州、出雲を経由して運ばれてきた鉄が、交易されながら行きかっていたという。
 そして、丹後から豊岡付近には、そうした翡翠と鉄が交差する「国際港湾都市」が存在したと長野氏は書いている。丹後半島には、半島の付け根を横断する「船曳道」があり、人を寄せ付けない断崖が続く半島を周回する手間と危険を回避していたという。長野氏は、船曳道が半島を横切っていた傍証として、そのルート上に古代交易の場であったらしい神社が存在すること、山の中の遺跡から船型埴輪が出土したこと、神楽の囃子言葉に「船が入ってきた」という内容があることなどをあげている。
 そのルートには、今、北近畿タンゴ鉄道が走っているという。なかなか魅力的な説である。

 当時は島だった出雲も、そうした交易の中継地だった。斐伊川の氾濫により出雲水道が埋まったことが原因で船の通行ができなくなり、出雲は衰退したという。まさに「国引き」と「国譲り」である。

 長野氏によれば、そうやって日本海側が繁栄していた一方で、卑弥呼の時代、瀬戸内海は船が航行できるような状態ではなかったという。
 瀬戸内海の干満差は3メートル以上、時速20キロという激しい流れに加え、海底には数多くの岩礁がある。そうした海を航行できるようにするためには、「啓開」という作業が必要だという。水中の障害物を取り除き、航路を決めて澪標を立てねば、いくら内海とはいえ、航行は不可能なのだそうだ。
 さらに、船を係留する港や、漕ぎ手を休め、食料と水を供給する場も必要だ。海の整備に加え、そうした陸地の整備も行わねば、船が航行することはできない。
 そうしたことから長野氏は、卑弥呼の遣使は日本海側から出発した可能性が高いと推測している。瀬戸内海が通れなかったのなら、その可能性は高いと言っていいだろう。港湾整備のプロとして、また、自らも船を操り世界中の海を航海してきた長野氏ならではの卓見である。
 畿内に邪馬台国があったなら、遣使の船は瀬戸内海を経由して大陸へ向かったというイメージをどうしても持ってしまうが、どうやらそれは違うらしい。古代の瀬戸内海は、現代人の持つ「フェリーでのんびりと進む穏やかな海」のイメージとはかけ離れた海だったようだ。
 従って、瀬戸内海を通ったと書紀に記述されている神武東征も神功皇后凱旋も、実際には不可能だったはずだと長野氏は言う。日本書紀を編纂した舎人親王は、瀬戸内海の恐ろしさを知らなかったのだ、と。

 長野氏は、通行不可能だった瀬戸内海を「啓開」したのは雄略天皇だったと述べている。なぜ雄略に限定したのかは残念ながら判読できなかったが、「河内王朝」と呼ばれた彼らの王朝が、瀬戸内海の整備に成功し、制海権と交易権を握ったというのは、大変説得力ある説である。


 さて、ここから先は、私得意の「妄論」である。眉に唾をつけてお読みいただきたい。

 皆さんは、「倭の五王」がなぜ中国に使いを送ったのかご存じだろうか。
 もっとも有力な説は、当時半島を割拠していた国々に対して優位を保つため、というものだ。半島北部を高句麗が占め、南側では百済と新羅が伽耶を分割すべく虎視眈々と狙っているという状況下、朝鮮半島諸国に対し優位を保つため中国南朝のお墨付きを得ようとしたというのがその論旨である。
 もちろんそれもあっただろう。だが私には、それよりももっと強力な対抗勢力が彼らの身近に存在し、それを牽制するために遠い大陸の力を借りようとしたように思えてならない。そうでなければ、わざわざ危険を冒してまで遣使するはずはない。

 その「対抗勢力」、それこそが、のちに継体を輩出した「日本海勢力」ではなかったか。

 長野氏の著書にもあるように、古代の倭国は日本海側のほうが栄えていた。九州、出雲、丹後などである。そこに、瀬戸内海の「啓開」に成功した勢力が割って入る。「河内王朝」だ。河内王朝の王たちは、朝鮮半島との交易を有利に進めるために南朝に遣使し、冊封を受ける。自分たちこそが「倭国」の正統な王であると宣言したわけだ。
 だが、その王朝内では争いが絶えなかった。血で血を洗う抗争のうちに、跡継ぎとなる若者は死に絶え、やがて王朝存続の危機に直面する。
 その隙を狙い、日本海の交易を仕切っていた勢力がヤマト制圧に乗り出した。そのリーダーが継体だったのではないだろうか。

 地図を見れば一目瞭然だが、日本海と瀬戸内海は「水」でつながっている。
 琵琶湖は大阪湾より日本海に近い。もちろん、敦賀から琵琶湖に出るまでには山を越えねばならないが、長野氏の本によれば、船底が平らな古代の船は山越えが可能だったという。琵琶湖まで出れば、あとは淀川を下るだけだ。(長野氏は斉明朝における阿倍比羅夫の遠征も山を越えて日本海側から出発したと推測している。確かにそのほうがずっと近い)
 継体が即位したとされる樟葉宮は、淀川沿いにある。さらに、継体陵であることが有力視されている今城塚古墳と、彼の父・彦主人王の墓ともいわれる太田茶臼山古墳があるのは、ともに淀川流域の三島である。
 継体は、水路を用いて、畿内に勢力を拡大していったのではないだろうか。

 継体の最も古い妃は、安閑・宣化の母とされる目子媛で、彼女は尾張連の出身である。継体は早くから婚姻関係を通じて尾張、すなわち太平洋側に進出をもくろんでいたようである。
 また、琵琶湖南東部に本拠を持つ安直(やすのあたい)氏が、継体擁立に尽力したという記録がある。安直氏の本拠地である近江の野洲には、甲山古墳と円山古墳があり、大王クラスの規模と内容を持つことから、安直氏は当時かなりの権力を有していたと推察される。
 さらに継体は、九州とも密接な関係を持っていたようだ。後年、筑紫君磐井が反乱を起こした際、継体は、「昔は吾が伴(とも)として肩すり肘すりつつ同じ器にしてもの食らひき」(昔は友として肩や肘をすりあわせつつ、同じ器からものを食べた仲だったのに)と嘆いたという。つまり、反乱を起こすまでは、磐井は継体の「伴」だったということだ。また、5世紀末から6世紀前半にかけて、美しい桃色をした阿蘇石が、石棺の材料として畿内に運ばれ、今城塚古墳はじめ当時の陵墓に使用されている。阿蘇石は九州の火君(ひのきみ)の領地からしか産出されないことから、継体と火君が良好な関係にあったことがうかがえる。

 つまり、九州を含む日本海側に幅広いネットワークを構築していた継体は、婚姻関係を通じて太平洋側、さらには畿内へ進出しようともくろんでいたというわけだ。
 継体は中央豪族である和珥氏の娘・荑媛を妃とし、和珥氏の力をもってヤマト進出の手掛かりとした。継体が磐余へ入るまでの拠点とした弟国は、和珥氏の勢力圏にある。

 だが、弟国に拠点を構えてから継体がヤマトに入るまでさらに8年の歳月を要した。それだけヤマト勢力の抵抗が強かったということだ。その中心となっていたのは葛城氏である。

 ここで気になるのは蘇我氏のことだ。
 ずっと以前にも述べたことがあるが、蘇我氏は、継体と手白香皇女の間に生まれた欽明天皇の時代に、急速に力を伸ばした。その出自ははっきりしない。ただ、朝鮮半島との交易で力を得た氏族らしいということが、祖先の名からうかがい知れるのみだ。
 また、蘇我馬子が推古天皇に対し、葛城は我らが本貫の地であるとして割譲を求めていることから、馬子が葛城氏の血を引いていることは間違いない。
 推測ではあるが、蘇我氏は、継体とともに日本海側の支配に携わっていたのではないだろうか。そして、継体のヤマト進出にあたり、自らが葛城氏と婚姻関係を結ぶことによって、継体の基盤固めに協力したのではないか。蘇我氏と葛城氏の間に生まれたのが蘇我稲目だったとするなら、稲目が中央政界に忽然と姿を現し、急速に力を伸ばしていった理由も、たやすく理解することができる。

 継体が「河内王朝最後の姫君」とされる手白香皇女に生ませたのが欽明天皇である。そして蘇我稲目は、欽明とほぼ同年代と推測されている。
 継体の懐刀として越前からやってきた蘇我稲目の父は、継体が前王朝の姫君と婚姻関係を結ぶのとほぼ時を同じくして葛城氏の娘と婚姻した。葛城氏の協力を得たことにより、継体は倭国の王となることができたのだ。欽明と稲目の間に、「血のつながらない兄弟」のような絆が生まれたとしても不思議はないだろう。

 その後の蘇我氏の繁栄と没落は、皆さんご存じの通りである。

 

(2015年7月9日)

古代史
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