古代史における人物の年齢測定法

以前にもこのブログに書いたことがあると思うが、小説を書く際、私が重視しているのは

「年齢」

である。
人物の描写に欠かせないのはもちろんのこと、歴史的な事件があった年、登場人物たちが何歳だったのかを把握することは、その事件に対する彼らの印象や判断をイメージするよすがとなるからだ。たとえば、大規模な戦乱があった時、8歳と18歳ではその受け止めかたはまったく違う。

そういったこともあって、私は年齢にこだわって小説を書いてきたのだが、困ったことに、古代を生きた人々の「正確な年齢」を算出するのは大変難しい。いや、難しいというより不可能に近い。

以前にも少し書いたが、大海人皇子の年齢問題は、邪馬台国の所在地論争と並ぶ、古代史の二大論点である。
日本書紀では中大兄の弟とされている大海人皇子は、没年齢が残されている史料から逆算すると、中大兄より年上になってしまうのだ。そこでさまざまな解釈がなされるわけだが、これは古代史に興味を持つ人なら一度は足を踏み入れる、いわば「初級編」の問題である。

拙著をお読み下さった方はご承知の通り、私は大海人皇子を中大兄の「異父兄」と設定した。まあこれもいささか手垢のついた説ではあるのだが、彼の母である皇極天皇や、彼女をとりまく人々の年齢を精査した上でのことである。

皇極天皇の没年齢も書紀には記されていないが、「紹運録」「水鏡」には68歳、「帝王編年記」には61歳と書かれていて、彼女の弟とされる孝徳天皇の年齢と照らし合わせ、68歳没説が通説となっており、私もこの説を採用した。
そこから逆算すれば、彼女が中大兄を生んだのが33歳の時で、次に間人皇女、大海人皇子を生んだとすれば、大海人を生んだのは少なくとも35歳を過ぎてからのことになる。当時の状況を鑑みて、その年齢での出産は難しいと判断し、中大兄の前に皇極が生んだ漢皇子が大海人皇子だったということにした。もちろん、物語の面白さを勘案してのことでもある。
もちろん通説では、大海人皇子は中大兄の弟で、彼らの年齢差は3~5歳とされている。皇極天皇は当時としては異例なほどの高年齢で大海人皇子を出産したというわけだ。

だが先日、それらの計算を根本からくつがえす、画期的な説にめぐりあった。

神谷政行氏の「天武天皇の年齢研究」である。

その中で神谷氏は、皇極は通説よりもずっと若かったはずだ、との論を展開している。
長子である中大兄を生んだ時、皇極はまだ20歳ほどで、末子の大海人を生んだのが30代、従って大海人と中大兄の年齢差は10歳以上あったはずだと神谷氏は言う。その説に立つと、今まで42歳とされていた大海人の即位年齢は30歳以下ということになり、それなら大海人の政界登場が異様なまでに遅いのも、年若い大友皇子と皇位をめぐって争わねばならなかったのも、中大兄の娘たちが数多く大海人に嫁いでいるのも、すべて説明がつくというのだ。

……申し訳ないが、最初読んだ時は、「ああ、よくあるトンデモ説ね」というくらいの感想しか持たなかった。だが、読み進めるうちに、はたと引っかかった部分があったのである。

皇極の母・吉備姫王についてだ。

吉備姫王は、推古天皇の弟、桜井皇子を父に持つ。
桜井皇子の同母兄弟は全部で13人おり、長兄は用明天皇、4人目が推古、桜井皇子は10番目に生まれている。長子である用明と4番目の推古の年齢差は諸説あるが8歳なので、10番目に生まれた桜井皇子と推古の年齢差は、誤差はあるだろうが少なくとも10歳以上はあったはずだ。2年に1人のペースで出産したなら12歳差だ。

推古天皇は554年生まれである。
これは、書紀に明記された没年齢から逆算したものなので、信憑性は高い。従って、この生年がひとつのアンカー(錨)になる。

推古との年齢差が10歳と仮定すれば、桜井皇子の生年は564年
桜井皇子の子である吉備姫王がいつ生まれたのか定かではないが、桜井皇子が20歳の時の子とすれば、吉備姫王の生年は584年ということになる。

ところが、吉備姫王の娘とされる皇極天皇は、通説に従えば594年に生まれたことになっているのだ。これでは吉備姫王は10歳で皇極を生まねばならないことになってしまう。
桜井皇子が15歳で吉備姫王の父となり、吉備姫王が15歳で出産したならぎりぎり可能ではあるが、かなり厳しいといえるだろう。推古と桜井皇子の年齢差があと少しでも開いていれば、それも不可能となってしまう。長兄である用明と4番目の推古の年齢差が8歳あることを考えれば、推古と桜井皇子の年齢差は10歳どころかもっとあったと考えるほうが自然だろう。

それらのことから神谷氏は、皇極の生年をそれまでの594年からぐっと引き下げ、607年と仮定した。推古の生年をアンカーとするなら、妥当な説と言わねばならない。

私は小説を書くにあたって、皇極の夫や弟、子らの年齢は精査した。だが、母である吉備姫王は盲点だった。まさに虚を突かれた感がある。推古を基点に桜井皇子、吉備姫王、さらには皇極の生年を導き出した神谷氏のこの考察に、反論する手がかりはまだ見つからない。

神谷氏の説に従い、皇極が607年に生まれたとすると、彼女が中大兄を生んだのは20歳の時ということになる。
神谷氏はさらに、大海人が中大兄から冠位の階名の増加と変更を命ぜられた664年を、成人となった大海人の初仕事とみなし、そこから大海人の生年を644年と推測している。大海人が書紀に初めて登場する「孝徳置き去り事件」(653年)の時点では、大海人は単に「中大兄らとともに飛鳥に移った」だけの子どもだったというわけだ。
そう仮定すると、書紀に登場するのが異様に遅いのも、年齢差が大きいはずの姪たちと数多く婚姻したのも、壬申の乱を起こさなければ大友皇子にかわって即位することができなかったのも、すべて説明がつく。

……う~ん、なるほど、と唸った梅前だったが、この説には問題が、いや、見逃すことのできないほどの大きな問題がある。

大海人が生まれたとされる644年、大海人の父である舒明天皇はすでに死んでいるのだ。
死んだ夫との間に子を生むことはできない。
この大問題に対して神谷氏は、書紀の644年3月条に「豊浦大臣(蘇我蝦夷)の家の倉でフクロウが子を生んだ」とあるのに着目し、フクロウは不義の子が生まれた抽象表現であるとの観点から、大海人の父は舒明ではなく別の人物だったと推測する。そして、大海人の父である可能性が高い人物として、

高向玄理

をあげているのだ。
いうまでもなく、私の小説でも大海人の父とした高向黒麻呂その人である。
ただし、私の設定のように留学中に倭国に戻ってのことではなく、正式に唐から帰国したあとだというのだ。
私の設定では黒麻呂は、留学生として隋に向かった時16歳だったから、神谷氏が言うところの大海人生誕の644年の時点では52歳になっている。52歳で子を得る男性もいるだろうが、正直なかなか厳しいというのが一般論ではなかろうか。
だが神谷氏は、隋に向かった時の黒麻呂は11歳前後だったと推測する。中臣鎌足の長男、定慧が唐に向かった時11歳だったことや、のちの時代の天正遣欧使節の少年たちの年齢などから、外国で長い時を費やすことをふまえ、年若い人間が選ばれたのではないかというのだ。
そうなると黒麻呂は私の設定より5歳若いということになり、問題の644年、彼は47歳ということになる。

「高向玄理は先進国・唐から帰ったばかりの新進気鋭のエリートです。(中略)皇極天皇36歳に愛が芽生えたとしても不思議ではありません」

……う~ん。それは考え付かなかった。

さらに神谷氏は続ける。

「孝徳天皇を囲むブレーンは、中大兄皇子と中臣鎌足を除いて、ことごとく死んだり殺されたりしていますが、高向玄理だけは、無事に生きのび中国の唐の都に入ります。(中略)私には、日本の改革の嵐のなか、高向玄理を日本から唐に逃がした斉明天皇の強い愛情を感じないではいられないのです」

そしてさらに

「天智天皇が生まれた626年には高向玄理が日本に戻ってきていたと考えられます。29歳になる高向玄理は20歳になる宝皇女こと後の皇極天皇と関係した可能性は否定できません。(中略)すると、天智天皇と天武天皇は、父は舒明天皇ではありませんが、同じ父母を持つ真の兄弟ということも考えられそうです」

……いやいやいや、神谷さん、それはない。それはないだろ。
いくらなんでも黒麻呂にそこまでやらせちゃいかん。魅惑的な説ではあるけど。

いずれにしても、黒麻呂くんの実力を見せつけられた思いの梅前であった。





話は変わるが、先日、とある会合で、それまで私より年下とばかり思い込んでいた人が実は年上だったと知り驚いた。
それまで私はその方のことを、少なくとも私より4歳下、最大で8~9歳下だと見積もっていたのだ。まあ、彼の見た目が若いこともあったのだが。
年上と知って驚く私に彼は、浪人したりしたので大学の卒業年次が遅いんですよ、などと慰めてくれたのだが、私はその人の卒業年次はおろか出身校さえ知らなかったので、目測が外れた原因はそれではなかった。私は彼の年齢を、ご子息の年齢やもろもろの話の断片から私なりに推測していたのだ。そう、古代の人々の年齢を推測するのと同じ手法をとったわけである。
それが、私よりまさかの2歳上であった。
計算上、最大10歳の誤差があったことになる。

同じ時代を生きる人の年齢ですら、このようなありさまである。ましてや、1400年前に生きた人々の年齢など、測ろうとすること自体に無理があるのだ。
どの説が真実で、どれが間違っているのか、誰にも判断することはできない。
もしかしたら本当に、唐から帰った黒麻呂(47歳)は、宝(36歳)と恋に落ちていたのかもしれない。
なかなかロマンあふれる説である。


<追記>
「天武天皇の年齢研究」の神谷政行氏の了承を得ないままこの記事を書きましたが、神谷氏にメールを送り報告したところ、記事の転載を含め了解を頂戴しました。ご快諾いただきました神谷氏に厚く感謝と御礼申し上げます。

(2015年6月18日)

 

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