小山田遺跡~舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓か

先日、奈良県明日香村にある小山田遺跡で、古墳の周濠とみられる遺構が発見され話題になっている。(2015年1月16日新聞発表)
橿原考古学研究所によれば、遺構は7世紀中頃のもので、一辺が50メートル以上もある大型方墳の濠とみられており、古墳としては飛鳥時代最大級のものであるという。
現地説明会に参加した方がお寄せ下さったコメントによれば、1500年前のもであるにもかかわらず、敷き詰められた石は結構正確に切られていたらしい。
それだけの墓を築くことができるのは相当な有力者に違いなく、被葬者の候補としては、642年に崩じた舒明天皇、あるいは、同じ頃に墓を築いたという記録が残る蘇我蝦夷の2人があげられている。


舒明天皇は天智と天武の父である。私が小説の主人公とした皇極天皇は、彼の正妃だ。
一方の蘇我蝦夷は、推古天皇や聖徳太子とともに政治に辣腕をふるった蘇我馬子の子で、息子である蘇我入鹿が乙巳の変で中大兄皇子に殺された際、甘樫丘の邸宅で自死した。

乙巳の変が645年、舒明天皇崩御が642年なので、7世紀中頃とされる小山田遺跡の被葬者はどちらとも判断つけがたい。
舒明天皇陵だとしたら、日本書紀の皇極元年12月条に記された「滑谷岡(なめはざまのおか)」とみられ、舒明は翌年(643年)9月、押坂陵(おしさかのみささぎ・壇ノ塚古墳)に改葬されている。
蘇我蝦夷の墓は、子である入鹿の墓とともに造営されたとされ、それを陵(みささぎ・天皇陵のこと)と呼ばせ、それを造る工事に聖徳太子の領地の人々をかりだしたことが、蘇我氏が滅ぼされる原因となったと日本書紀は記している。

舒明天皇と蘇我蝦夷、いずれが被葬者であるかは今後の研究を待たねばならないが、それがどちらであるかによって、古代の様相はまったく違ったものになってしまう。


舒明天皇は、あの時代には珍しく、蘇我と血縁のない天皇だった。
彼の父は敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子で、母はやはり敏達を父とする糠手姫皇女であるが、彼らの母は蘇我の娘ではない。
用明、崇峻、推古らの各天皇が蘇我稲目の娘を母とするのとは対照的である。
そんな舒明がなぜ天皇(あの当時は大王)となれたかについては諸説ある。
蘇我馬子の娘が彼の妃となっていて、彼女との間に生まれた古人大兄皇子の即位を蘇我が望んでいたという説が一般的で、私も小説を書くにあたってはその説を採用させてもらったが、さまざまなことを考え合わせると、あながちそうとも言い切れない。
舒明天皇は、父である押坂彦人大兄皇子から広大な所領地を受け継ぎ、その経営に手腕を発揮したことによってその実力を認められた、押しも押されもしない大王候補だったとも考えられるのだ。
彼が大王の位に野心満々だったことは、大王家の血を引く宝姫王(皇極天皇)を、前夫との間に一子がいたにも関わらず正妃としていることからもうかがえる。あの時代、大王家の血を引く正妃の存在は、大王として即位するために不可欠な条件だったからだ。
推古天皇が崩御した際、次の大王を誰にするかで騒ぎになったが、蘇我と血縁のない舒明が、聖徳太子の遺児であり、やはり広大な所領地を受け継いでいた山背大兄王の有力な対抗馬となったことも、舒明の実力が広く認められていたことの証左となるだろう。
二人のうちどちらを後継とするか不明とされた推古の遺言も、舒明にはしっかりやるようにと言い、山背大兄王には重臣たちの言うことをちゃんと聞けというもので、冷静に聞けば舒明を後継として指名していることは明らかだ。
そして蘇我蝦夷は、重臣たちの意見を調整した上で、蘇我とは血縁のない舒明を新大王として立てている。
その際蝦夷は舒明即位に反対する境部臣摩理勢を滅ぼしているが、蝦夷がもし、将来の古人即位に向けての布石ではなく、重臣たちの採決に従わなかったという理由で境部臣摩理勢を滅ぼしたのだとしたら、蝦夷は日本書紀に描かれたような権勢をほしいままにした人間ではなく、重臣たちの奉戴によって新しい大王を選ぶというそれまでの慣習に誰よりも忠実な大臣だったということになる。

そうやって重臣たちに奉戴され大王となった舒明は、即位の翌年には初となる遣唐使を送っている。それは彼のリーダーシップがあってはじめて可能になったこととも思えるのだ。
日本書紀の編纂者は明らかに、蘇我蝦夷と入鹿を悪人として描いている。
その色眼鏡をはずしてみれば、強いリーダーシップをもって倭国を牽引しようとしていた舒明の姿が見えてくる。


一方、小山田遺跡が蘇我蝦夷の墓だったとしたら、話は全く違ってくる。
一辺が50メートルにも及ぶという墳墓は石舞台古墳より大きく、あの時代最大級とされる推古天皇陵にも及ぶほどの規模である。
それだけの墳墓を造ることができるのは、大王に匹敵する、いや、それ以上の権力を持つ人間に限られるはずだ。
巨大な墳墓を建設するためには多大な労力が必要で、日本書紀が記すように、皇子の領地の人々を使役したことも充分考えられる。蘇我蝦夷の横暴を記したとされる日本書紀の記述も、あながち誇張ではなかったということになる。
小山田遺跡は蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったとされる甘樫丘の南西に位置しており、それが蘇我蝦夷の墳墓であったとするならば、その巨大な墳墓と蘇我の氏寺である法興寺(飛鳥寺)を含む一帯、すなわち我々が現在飛鳥と呼んでいる地域は、蘇我が自らのために造り上げその権勢を示した、まさに「蘇我の王都」と言うべき場所であったはずだ。


このように、小山田遺跡が舒明天皇のものだったか蘇我蝦夷のものだったかによって、古代は全く異なった姿を見せる。
答えは永久に出ないのかもしれないが、一人の古代史愛好家として、今後の研究の成果をワクワクしながら見守りたい。

(2015年1月22日)

古代史
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