古代天皇の子女数についての一考察

みなさん。
古代の天皇の中で

一番の子だくさん

は誰だと思いますか?

ご存じの通り天皇家は万世一系、千数百年前から連綿と続いてきた血筋ってことになってるけど、ここまで途絶えずに続いてきたのは、各時代の天皇たちのたゆまぬ努力のおかげなわけですよ。

で、ワタクシ、天皇家の礎が築かれた古代、誰がどのくらい「血筋を残すため」に奮闘したのか、調べてみました。
もちろん興味本位です、はい。

ちなみにワタクシが調べたのは、初代天皇とされる神武天皇から、第45代聖武天皇まで。
一応、「古代」に分類される天皇たちでございます。

45代の天皇のうち、6代5人の女帝ははぶきました。
女性は産める数に限りがあるし、彼女たちはほとんどが天皇の妻なので、彼女たちが産んだ数は夫の業績(っていうのか?)にカウントされるからです。

で、古代男性天皇39人のうち、栄えある子だくさんナンバーワン、「古代のビッグダディ」に輝いたのは‥‥
ドゥロロロロ‥‥(ドラムロール)

第29代・欽明天皇!

日本書紀によれば、彼は6人の妃との間に、25人の子がいたとされています。

‥‥25人ですよ、奥さん。25人。
正式な記録に残ってるだけで25人もいたってぇんだから、実際はもっとたくさんいたはず。
いや~、すげえよ、欽明。
キミには自制心ってものはないのか。

ちなみに「欽明」ってのはあとからつけられた名前で、日本書紀には「天国排開廣庭天皇」と記されております。
あめくにおしはらきひろにわのスメラミコト。
「おしはらきひろにわ」のあたりに天真爛漫に女とやっちゃってる姿を想像するのは私だけでしょうか。(アンタだけだよっ)

彼の子どもたちの男女の内訳は、男16人、女9人。
その中から敏達、用明、崇峻、推古と、なんと4人もの天皇が輩出しました。
彼の孫には、かの聖徳太子がおりまして。
曽孫には舒明、皇極(われらがタカラちゃん)、さらに玄孫の世代には天智、天武と、まあなんつーか実質的「天皇家の祖」ってな感じの人物なんですな、この欽明天皇って方は。
子だくさんだと子孫が栄える、の見本みたいな人でございます。


続きまして子だくさん第2位は、第12代・景行天皇。

彼には子どもが24人いたと伝えられております。
惜しい! あと1人で1位タイ。
ただし彼の場合、80人の子がいたという伝承も残っていて、それが事実ならぶっちぎりの第1位です。

彼の子どもの男女の内訳は、男17人、女7人。
その中にはかの有名な

ヤマトタケル

がおりまする。
だけど、景行の子どもたちの中で、天皇として即位したのは一人だけ。(成務天皇)
その成務天皇すら、妃の名前や子の名前が残っていないことから、実在しなかったんではないか、なんて言われておりまして。(いや、ただ単に、父を反面教師とした女嫌いだっただけなのかもしれませんが)
ま、いずれにせよ、第1位の欽明天皇とは対照的に、数がいるわりにはぱっとしない息子たちだったわけです。
こちらは、多けりゃいいってもんじゃない、てえのの見本みたいな感じがいたします。

ちなみに、成務のあとに即位したのは仲哀天皇ですが、彼の父は景行ではなくヤマトタケル。
つまり仲哀は景行の孫にあたるわけです。
その仲哀天皇がかの神功皇后に生ませたのが応神天皇で、その応神天皇こそ、河内王朝ともいわれる新たな王朝の始祖となったと言われています。


さてさて。

子だくさん第3位は、第26代・継体天皇。

第1位欽明天皇のお父さんです。
彼には21人の子がおりました。
男女の内訳は男9人、女12人。
その中から、欽明、安閑、宣化の三人が天皇になりました。

継体には9人の妃がおりました。
ちなみに、この9人という妃の数は、天智天皇とともに歴代2位。
子だくさんナンバーワンの欽明天皇も、妃の数は6人と、ちょっとおさえめです。
古代の天皇の中で妃の数が一番多いのは、天武天皇

その数10人。
10人ですよ、10人。
10人も奥さんがいたら、名前を覚えるだけでも大変だったでしょうね。(なわけないか)

ま、最多の妃数を誇るだけあって、天武天皇、すなわち大海人皇子は、
兄と女を取り合ったりとか(額田王)、
姉妹を同時期に妃にしたとか(持統と大田皇女)、
艶聞には事欠きません。

天武天皇の場合、特徴的なのは、10人の妃のうち4人までもが、兄である天智天皇の娘だったことです。
天智天皇には10人の娘がいたのですが、そのうち4人が天武の妃に、4人が天武の息子たちの妃になっています。
残る2人は斎王になったりしているので、娘たちのほとんど全員が、弟かその息子に嫁いだというわけです。
よっぽど弟のことが好きだったのか。
それとも、そうやってつなぎとめておかないとガンガン喧嘩しちゃうくらい仲が悪かったのか。
さて、どっちだったんでしょう。

この兄弟、
兄の天智には妃が9人、子が14人
弟の天武には妃が10人、子が17人

2人が「宿命のライバル」だったとするなら、妃の数と子どもの数だけ見れば、2人にそう差はないように思えます。
どっちも結構な数ですよね。

でも、兄の天智の14人の子どものうち、男の子は4人しかいませんでした。
天智にとって不運だったのは、その4人のうち3人までもが、身分があまり高くない女性から生まれたことでした。
たった1人、蘇我倉石川麻呂の娘を母に持つ建皇子という皇子がいたんですが、彼は8歳で亡くなってしまったのです。
天智が弟に娘たちをせっせと嫁がせたのは、息子に恵まれなかった自分の代わりに、娘たちに男の子を産ませようと目論んだ可能性もあります。

一方、弟の天武の17人の子のうち、男子は10人です。
でも、彼の場合も、10人もの男の子に恵まれながら、その中で天皇になったのは一人もいませんでした。
持統が産んだ草壁皇子は早逝し、持統の姉が産んだ大津皇子は謀反の罪で処刑されてしまいました。
天武の息子にはその2人の他にも、天智の娘(つまり由緒正しき妻)が産んだ長皇子、弓削皇子、舎人皇子らがいたのですが、彼等に皇位がめぐることはありませんでした。
天武には、母の身分は低いながら高市皇子という優秀でカッコイイ(筆者想像)息子もいたんですが、持統が自分が産んだ草壁皇子の子や孫の即位に執着した結果、天武の子孫の中で即位できる人間の数はどんどん減っていき、最終的には天武系の血筋は途絶えてしまい、結局、天智が身分のあまり高くない女性に生ませた施貴皇子という皇子の息子が、光仁天皇として即位することになったのです。
それは、天智天皇が没してからおよそ100年後のことでした。

正妻に男の子が生まれないと悩んでいたはずの天智天皇。
最後に勝利のフラッグを手にしたのが、自分が身分高くない女性に生ませた子の息子で、その血脈が現代に至るまで連綿と受けつがれていると知ったら、彼は一体どんな顔をするでしょう。


(2014年11月6日)

古代史
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