蘇我稲目について

 奈良県明日香村の都塚古墳が発掘調査され、蘇我稲目の墓ではないかと話題になっている。
 先日現地で行われた説明会には、2,000人もの人がつめかけたらしい。

 調査によれば、古墳は一辺が40メートル以上ある方墳で、階段状に石が組まれたピラミッド型の形をしていることが確認されたという。
 都塚古墳があるのは、蘇我馬子の邸宅があったとされる島庄遺跡や、馬子の墓と伝えられる石舞台古墳の南東で、そのあたり一帯は蘇我にゆかりの深い地域とされていることから、馬子の父である蘇我稲目の名が被葬者として急浮上したのだ。

 今まで蘇我稲目の墳墓として有力視されてきたのは、畝傍山の南東麓に位置する見瀬丸山古墳だった。

 蘇我蝦夷が「畝傍の大臣」と呼ばれたと日本書紀に記されているように、畝傍山周辺は蘇我の初期の勢力圏とされており、見瀬丸山古墳の6世紀第3四半期の築造とされる古い石棺こそ、570年に没した蘇我稲目のものではないかと言われてきたのである。
 見瀬丸山古墳は古くから欽明天皇陵との見解も根強かったが、現在欽明天皇陵として宮内庁から指定を受けているのは、その南東に位置する平田梅山古墳である。
 だが、平田梅山古墳より見瀬丸山古墳のほうが規模が大きい。建造時期が大きく異なるならまだしも、一年の差しかなく没した重臣の墓を、天皇のそれより大きく造営するとは考えられない。
今 回、都塚古墳が蘇我稲目の墳墓ということになれば、見瀬丸山古墳の被葬者について再び議論が沸騰することになるだろう。

 ご存じの通り、蘇我稲目は蘇我馬子の父である。
 馬子が推古天皇のもとで確立した権勢は、蝦夷、入鹿へと受けつがれ、稲目の曽孫にあたる入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足によって暗殺されたことによって終止符が打たれた。古代の日本を彗星のように輝きながら走り抜け、そして消えていったのが、稲目、馬子、蝦夷、そして入鹿の「蘇我4代」である。

 巨大な権勢を築いた蘇我4代であるが、その始点となった稲目の出自はどうもはっきりしない。もっともらしい系譜が書かれてはいるが、それが本当のことなのか、なんとも曖昧なのだ。

 蘇我稲目は、宣化天皇元年二月条「蘇我稲目宿禰をもって大臣とす」との記述をもって日本書紀に登場する。
 これが初出でありながら、彼はすでに大臣として任命されているのだ。
 それまで彼がどこでどのようなことをしていたのか、知るすべはない。彼の父とされる高麗も、政界で活躍した記録はまったく残されていない。高麗も含め、彼につながる満智、韓子という祖父、曽祖父の名は、入鹿暗殺によって蘇我家の長となった蘇我倉石川麻呂がそれまで行っていた韓半島からの献納物の管理という職掌を象徴的に表しているものにすぎないという説すらある。
 武内宿禰を祖とするという伝承はあるものの(それも後世の創作の疑いが濃厚だが)、蘇我はそれまで全く無名の、中流以下の氏族にすぎなかったと思われる。

 それなのに稲目は、大臣という重い地位をもって、歴史の表舞台に忽然と姿を現すのだ。
 欽明31年に65歳で没したという扶桑略記の記述を信用するなら、大臣に任命されたこの時、稲目は31歳だったことになる。
 稲目はその後、欽明天皇の治世を支え、その繁栄に貢献した。欽明天皇の子どもたちや孫たちがその後次々と皇位についたことを考えれば、稲目はこの国の王権の土台作りをなしとげた人物といっていいだろう。

 蘇我稲目が権力を確立したのは、大豪族・葛城氏の女性を妻に迎えたからだという説がある。
 葛城氏は5世紀ごろには大王家に次ぐ権勢を誇ったとされる豪族である。雄略天皇と対立したこともあり、6世紀には往時の権勢は失われていたが、大豪族としての地位は保っていたと思われる。
 稲目は、その葛城氏の娘と結ばれることによって、名門氏族の一員となることができたらしい。たとえは悪いが、成金が没落貴族の娘と結婚して格式高い倶楽部への出入りを許されるようになったようなものだ。
 馬子が葛城氏の娘を母に持つことは、馬子が後年、推古女帝に対し、天皇の直轄地だった葛城県を「その地は自分の本居(うぶすな)である」ことを理由に割譲を求めていることからも明らかだ。
 稲目がいつの時点で葛城氏の娘を妻としたかはわからないが、馬子の母が葛城氏の娘だったということは確実だろう。

  しかし私は、葛城氏の娘との婚姻にのみ蘇我稲目の中央政界進出の理由を求める見解には懐疑的である。
 むしろその逆、つまり政界に伸長著しい蘇我稲目に、衰退しつつあった葛城氏が目をつけ、彼に娘を縁付けることによって一族の安泰を保証しようとこころみたのではないかと思えるのだ。
 年齢表を作ってみると、欽明天皇の妃となった馬子の姉、堅塩媛と馬子の間には、20歳近い年齢差がある。堅塩媛が欽明との間に生んだ推古女帝が、馬子とほぼ同世代なのだ。
 馬子の母、つまり稲目に嫁いだ葛城氏の娘が16歳で堅塩媛を生んだとすれば、それから20年後、すなわち36歳で馬子を生むのは不可能ではないのかもしれない。だが、それでも当時としてはかなりな高齢出産である。10代で子を生んでから何年かおきに子を生み続けていたというなら36歳での出産もありえないことではないが、ほかに何人も生んでいるなら、馬子より先に蘇我家の跡取りとなる男子が生まれていたはずだ。
 何年も男子に恵まれなかったということも考えられるが、常識的に考えれば、堅塩媛と馬子は同父同母の姉弟ではなかったと考えるのが自然だろう。
もし堅塩媛の母が葛城氏の娘だったなら、堅塩媛の娘である推古は、馬子から葛城県の割譲を要求された時、自分にも葛城の血が流れていると言ったはずだ。しかし彼女はそうは言わず、私の母は馬子の姉であるから馬子は私の叔父にあたるが、いかに叔父の言うこととはいえ、ここで葛城県を失えば、後世の人々は私を謗るだろう、とだけ述べてその要求を退けている。つまりこの場合、馬子にのみ葛城氏の娘の血が流れていると解釈することもできるのだ。
 そう考えれば、馬子の「異母弟」とされる境部臣摩理勢が、推古ののちの皇位継承問題にからんで蝦夷にあっけなく滅ぼされてしまったのも、容易に説明がつく。蘇我家の後継は葛城の血を引く馬子からその息子の蝦夷に引き継がれていくべきで、その他の血脈に継がれるべきではなかったのだろう。
もしかしたら、その硬直した相続意識こそが、蘇我の滅亡の遠因となったのかもしれない。


 
 古代史において、蘇我稲目のように「中央政界に忽然と姿を現した」人物は、もう一人いる。

 中臣鎌足だ。

 もちろん、蘇我稲目が活躍したのは6世紀、中臣鎌足は7世紀で、彼らの生きた時代はまったく重なっていない。伝承によれば稲目は506年生まれで、614年に生まれたとされる鎌足とは生年ひとつとっても100年以上の開きがある。
 しかし、彼らの生き方には、いくつもの共通点がある。
稲目が欽明天皇を支えたように、鎌足も中大兄皇子(天智天皇)を支え、その治世に貢献した。
蘇我も中臣も、それまでたいした家柄ではなかったのに、彼らの代になって突然伸長したところもよく似ている。
 稲目と鎌足のほうが欽明や中大兄より少し年上なところまで同じだ。
 さらに言えば、稲目も鎌足も跡取りとなる息子(馬子・不比等)をもうけたのはかなり年齢がいってからのことで、私が作成した年齢表によれば、ともに46歳の時のことである。歴史の偶然とはいえ面白い。

 もっとも、中臣氏の場合、稲目の手法をより積極的に踏襲したのは、鎌足の息子である不比等のほうであった。
蘇我稲目は、2人の娘を欽明天皇の妃とし、彼女たちの生んだ子たちはそれからのち次々と皇位についた。系図を見れば、その後の天皇のほとんどすべてが、稲目の娘の血を引いているのがわかる。
 鎌足も娘を2人、天武天皇の妃としているが(なぜか天智の妃にはしていない)、不比等は、自らの娘たちを次々と天皇の妃とした。賀茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の夫人に、県犬養三千代との間に生まれた光明子を聖武天皇の妃とし、ついには皇后の地位にまでおしあげている。
 さらに不比等は、稲目や馬子が跡取りとなる男子を一人に限定したのとは対照的に、4人の息子たちに権力を分散して継承させ、さらなる栄達をはかっている。いわば不比等は、蘇我の失敗から学んだ出来のいい「修正版」となることによって、その後千年にわたる栄華を築くことに成功したともいえる。

 中臣鎌足の中央政界への進出を可能にしたのは、彼が中大兄皇子と共謀し実行した蘇我入鹿暗殺というクーデターの成功によってであった。
そ れは、当時の朝廷の秩序を根本から揺るがすものであったはずだ。すべての価値観がくつがえり、そこに生まれた混沌の中に、鎌足が進出する隙が生まれたのである。
 ならば、蘇我稲目登場の際にも、何かそういった混乱があったのではないだろうか。
 葛城氏の娘がいつ稲目の妻となったかはわからないが、それだけでいきなり大臣になれたとは思えない。葛城氏出身の妻の有無にかかわらず、それほどの家柄でもない31歳の男が大臣に抜擢されるような事態が、宣化天皇の即位前後、すなわち530年代にあったのではないか。

 私はそれを、継体天皇の崩御とみている。
 言うまでもなく継体天皇は、武烈天皇崩御後、即位する人物がなく重臣たちによって越の国から「応神天皇5世の孫」といううたい文句で担がれてヤマト入りし、武烈天皇の姉である手白香皇女を妃として即位した天皇である。
 その手白香皇女を母とするのが欽明で、継体が前妻との間にもうけていたのが安閑、宣化の両天皇である。
 継体天皇没後、前王朝の血を受け継ぐ欽明を即位させようとする勢力と、欽明がまだ若いことを主張して安閑・宣化の即位を求める勢力とで朝廷は緊迫したはずだ。年表を見ると、継体の崩御から安閑即位まで2年間の空白があるのは一目瞭然だ。その2年間、朝廷は一触即発の状態だったと思われる。
 これは想像の域を出ないが、稲目は何らかの方法でその事態を収拾することに成功したのではないだろうか。
 そして平和裡に(あくまでの書紀の記述を信用すればの話だが)皇位は安閑、宣化とめぐり、欽明が即位した。
 その際に手腕を発揮したのが、若き日の蘇我稲目ではなかったか。

 前述したように、稲目が晩年になってから葛城氏の娘をめとったとするなら、稲目はそうしたバックアップなく中央政界に名乗りをあげたことになる。
 それこそ驚異といっていい。
 一体どのような方法を使って、どのような運命の波に乗って、彼はその幸運を手にしたのだろう。

 そんなことをとりとめもなく考えながら、遠い飛鳥の地に忽然と姿を現した日本のピラミッドに、はるかな思いを馳せている。

(2014年8月22日)

 

古代史
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