年齢から古代を探る

 古代を探る史料は少ない。
 日本書紀、古事記、風土記、あるいは仏像などに刻まれた銘文や、発掘された木簡などから史実を推測していくしかない。
 中国の史書も古代日本の姿を伝えているが、距離の遠さからか、日本の史料と食い違う場合がある。もしも中国の史書しか史料がなかったとしたら、天武は天智の弟ではなく「子」であり、天武のあとに即位したのは妻の持統ではなく子の「総持」だと信じられていたはずだ。そうなると中国側の史料にしか書かれていない「ヤマタイ国」の「ヒミコ」なる女性も、実在しなかった可能性もないとはいえない。
 かといって、国内の史料なら完全に信用できるかというとそうではない。日本書紀にしても古事記にしても、本当のことを伝えている保証はどこにもない。神代のことは言うにおよばず、編纂時期に近い時代のことであっても、時の権力者に都合よく改ざんされている疑いはぬぐえない。勝者によって編纂されたものならば、敗者のことを悪く書くのは当然のことだからだ。
 そうした不確かな史料だけを頼りに研究を進めなければならない古代史というものは、まさに「闇の中を手探りで進む」ようなものなのだ。それが面白いところでもあるのだが。

 どういった史料を重視し、どういった史料を無視するかによって、古代史はまったく異なる様相をみせてしまう。研究者によって主張が食い違うのはそのせいだ。
 時にはそれが互いに一歩も譲らない論争に発展したりするのだが、お気楽な古代史ミーハーにとっては、思いもよらない角度から古代史の闇に光が投げかけられ、予想もしなかった古代の姿が浮かび上がるのを見ると、単純にドキドキワクワクするばかりだ。おお、そんな見方もあったのか!と目を開かされる瞬間は、本当に楽しい。

 私には凝り固まった主義主張はないけれど、重視しているものはある。

「年齢」である。

 日本書紀やその他の史料には、天皇の没年齢が記されている。それが本当かどうか確かめるすべはないが、ある程度のことを推測するよすがとはなりうる。
 ちなみに日本書紀には天皇の没年齢はほとんど記載されていない。書いてあるほうが珍しいといっていいくらいだ。
「他の天皇はほとんど全員没年齢が記載されているのに、天武天皇だけが日本書紀に没年齢を記されていないのは、彼が天智の弟ではなかったからである」
なんて断言している本を読んだことがあるが、その内容はともかくとして、書紀に没年齢が記されていないのは天武だけではない。

 私が小説の主人公として取り上げた宝姫王(皇極・斉明天皇)の場合は、斉明7年に68歳で没したとされている。
 彼女の場合も、日本書紀に没年齢は記されておらず、この没年齢は鎌倉時代に成立した「水鏡」、室町時代に編纂された皇室系図「本朝皇胤紹運録」に記されているもので、やはり室町時代に編纂されたとされる「帝王編年記」では61歳とされている。
 ただし、61歳没説をとると彼女の弟とされる孝徳天皇より彼女のほうが年下になってしまうので、68歳没説のほうが現在では有力視されている。

 宝姫王が斉明7年(661年)に68歳で没したとすると、逆算すれば彼女は594年に生まれたことになる。(数え年で計算)
 彼女の夫である田村皇子(舒明天皇)は、「皇胤紹運録」によれば崩年49とされており、641年に49歳で死んだということは、593年生まれだったということで、宝姫王とは1歳違いの、当時としては珍しく年齢の近い、似合いの夫婦だったということがわかるわけだ。

 宝姫王の息子たちであるが、中大兄皇子(葛城皇子・天智天皇)も、没年齢は書紀には記載されていない。父である舒明天皇が没した時に16歳だったという日本書紀の記述を信用するならば、没したのは46歳ということになる。意外に早世なのだ。
 671年に46歳で没したとすれば、中大兄皇子の生年は626年。
 で、彼の弟とされる大海人皇子(天武天皇)の没年齢は、「本朝皇胤紹運録」に65歳、「神皇正統記」に73歳とある。天武が没したのが686年なので、65歳没なら生年は622年、73歳なら614年となり、いずれも「兄」であるはずの天智より早く生まれたことになってしまう。

 そこで編み出されたのが、「65歳は56歳の書き間違いである」という説だ。
 書き間違いって、アンタ‥‥。それがまた「定説」になってるってぇんだから、またまた驚く。
 83歳で死んだじいちゃんを、うちのじいちゃんは死んだとき38歳でした!書き間違えたの!と言い張るようなもんである。
 ま、そこはそれ、天智は天武の「弟」じゃなきゃいけないわけだから、天武は65じゃなくて56で死んだんです。ひっくり返して書いちゃったの。なんである。
 56歳で死んだとすれば、天武は631年生まれで、626年生まれの天智より年下になり、メデタシメデタシなのであった。

 ま、今回の「お題」は「天武は天智の弟ではなく兄だった!」ではないので、この問題はまた今度。


 今日の主題は、彼らが生まれたとされる626年、あるいは631年に、母である宝姫王はいくつだったか、という話である。

 宝姫王は594年生まれだから、中大兄皇子が生まれた626年には33歳、大海人皇子が生まれた631年には38歳である。

 ‥‥ちょいとお待ちなさい。

 現代でこそ30代で初産、30代後半で出産なんて珍しくもなんともない話だけど、宝姫王が生きたのは7世紀だ。
 あの時代は16、7歳で結婚するのが普通で、結果、初産の年齢も現代とはくらべものにならないほど低かったはずだ。信長の時代で人生50年なんて言われていたんだから、あのころの平均寿命はもっと低かったに違いない。

 彼女の没年齢を61歳と仮定しても、中大兄皇子を生んだのが26歳、大海人皇子を生んだのが31歳だ。いずれにしても、当時としてはかなりな高年齢出産だったことは否めない。

 私が「この女、怪しくないか?」と思ったのも、実はこの「年齢」がきっかけだった。
 当時としては高すぎる出産年齢。
 天皇の后にまでなる女性が、そんな年齢になるまで何をしてたんですか、ってな話だ。

 そんなところから彼女はそれまで斎王として神に仕えていたんだよん、などというトンデモ話をでっち上げたりしたわけだが、事実はちょっと(というかかなり)違う。

 彼女は再婚なんですね。

 宝姫王は舒明天皇と結婚する前に、「高向王」なる人物のもとに嫁して「漢皇子」という子を生んでいる、と日本書紀にちゃんと書いてある。(それが皇極紀ではなく斉明紀に書かれているのは何か意図があってのことじゃないのか、なんて生徒会長にからんだりしたけど、そのあたりもまたの機会に)

 残念ながら「高向王」は高向黒麻呂のことではない。
 高向王は用明天皇の孫とされているが、用明天皇の孫にそれらしき人物は見当たらない。高向王も、漢皇子も、その記載以外、日本書紀には一度も登場しない。
 でも、漢皇子なんて、天智天皇と天武天皇の異母兄だよ?
 それが完全に歴史の闇に消えてしまっているのだ。
 もちろん、夭逝した可能性はある。だが、生きていたとしたら、何らかの形で歴史に登場しているはずだ。

 高向王とは何者だったのか。
 漢皇子はどのような人生を生きたのか。

 そういうことを想像するのは楽しい。
 自由に想像の翼を広げることができるのも、古代史の醍醐味と言えるだろう。


 ‥‥歴史の闇に姿を消した漢皇子とは、実は大海人皇子その人であった。彼はその後天皇として即位し、歴史書の編纂を命じたが、その中に一行だけ、自らの出自の真実をまぎれこませた。
 自分の本当の名前。そして、本当の父の名前。
 母である宝姫王の名誉を守るため、彼は父の名前に「王」を冠し、王族の一員とした。父を隋に導いた厩戸皇子の父である用明天皇をその祖父に擬して。

 ‥‥なんつーのは小説上でのフィクションですので、信用したりしないように!

(2014年7月24日)

古代史
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