伊勢神宮の成立とその目的について

 昨年(2013年)、伊勢神宮は62回目の式年遷宮を終えた。室町時代に一時期絶えたことはあるものの、古代から連綿と続けられてきたとされる稀有な儀式である。
 なぜ式年遷宮を行うかについては諸説あるが、神の社から神具にいたるまですべてを新しく造り替えることで、神の力の再生を願うという説が一般的である。定期的に新しくすれば、それは永遠に新鮮な輝きを保つことになる。冬に死に絶え、春にはまた芽吹くという四季のありようも、その世界観に影響を与えたはずだ。

 私の書いた小説「皓月」では、神宮(かみつみや)に仕える斎王(いつきのみこ)を主人公とした。斎王であるためには未婚の処女でなければならず、基本的には生涯にわたって神に仕え続けなければならない。神宮は国家によって管理されており、彼女はクニと神という二重の鎖によって縛られているという設定だった。
 彼女の暮らした神宮の場所を、私は三輪山のふもと、現在檜原神社があるあたりと設定した。檜原神社は「元伊勢」と呼ばれており、その立地からして最適な場所と考えたからだが、小説を読んだ方から、国家の祭祀を司る神宮はそのずっと以前から伊勢におかれていたのではありませんか、というご指摘をいただいた。
 確かに日本書紀には、垂仁26年、倭姫命が各地を巡幸ののち、天照大神を伊勢の五十鈴川の川上にまつった、と記されている。長く伊勢神宮に奉職された矢野憲一氏の「知られざる社のうち・伊勢神宮」にも、

それは垂仁天皇26年秋9月甲子の日、今から二千年前のこと。日本が国家として発展しはじめた時期であるから、皇室の神が民族全体の神として大きく進展したのであろう。


とある。また、倭姫の巡幸についても、

おそらく倭姫命は夢のお告げによって、今日は東に明日は西にと巡幸の旅をし、その土地に住む人々は、誇りをもって大神がまつられた伝承を今に語り続けてきたのである。


と記されている。檜原神社についても、矢野氏はそうした「伝承を今に語り続けてきた」地とみなされているのだろう。
 檜原神社が当時、どういう位置づけにあったのかは一切不明である。「元伊勢」という名を手がかりに、国家の祭祀を司る場所として設定したのは、私の小説世界におけるフィクションにすぎない。しかし、伊勢という地に大規模な神宮が築かれたのは、私の小説の時代よりあとのことだろうと私は考えている。

 先日放送されたNHK「遷宮」によれば、伊勢神宮は「藤原京の真東」に位置するという。番組では、持統天皇が自らをアマテラスになぞらえ、孫のニニギ(文武天皇)に位を譲るために日本書紀の内容を作り上げたということになっていた。その裏付けとして、持統が都として定めた藤原京の真東に伊勢神宮が位置していることがあげられていたのである。
 その説が正しいとするなら、伊勢の起源は藤原京造営よりさかのぼることはない。つまり、「皓月」の時代、伊勢にはまだ神宮は存在していなかったということだ。
 もちろん、のちに神宮を置いてしかるべき何らかの祭祀施設は伊勢に存在しただろう。伊勢湾に浮かぶ夫婦岩など、古代から信仰の対象だったはずだ。しかし、「国家としての祭祀を行う場所」は、天武・持統以前には伊勢に置かれていなかった可能性が高い。

 伊勢に神宮が設置される以前、つまり持統が自らをアマテラスになぞらえる以前は、この国の祭祀において、日の神もその他の八百万(やおよろず)の神々と同格とまでは言わないまでも、記紀にみられるようなすべての神々の上に君臨する絶対神としてはとらえられていなかったはずだ。ヤマトにおいて最も神威ある山とされる三輪山が、日の神ではなく大物主を祀っていることからもそれは明らかである。
 それがなぜ「日の神」のみがクローズアップされ、伊勢にそれを祀る壮麗な宮が築かれることになったのか。それはあの時期、東アジアを取り巻いていた国際情勢と深く関わっていたと思われる。それはおそらく、統一新羅の出現と、唐の興隆という、当時の東アジアを襲った衝撃であったことだろう。

 伊勢神宮の第一回式年遷宮は、記録によれば内宮が690年、外宮が692年で、ともに持統天皇によって行われたとされている。以後、20年ごとに遷宮を行うことも、その時に定められたようだ。そこから逆算すると、伊勢神宮の設立は、第一回式年遷宮の20年ほど前のことだったと想定できる。690年の20年前、つまり670年頃、何があったのか考えてみよう。

 その時代のエポックメーキングとして重視せねばならないのはやはり、663年の白村江の敗戦だろう。白村江で唐と新羅の連合軍に完膚なきまでに叩きのめされた結果、倭国は半島への足がかりを完全に失ったばかりか、唐の脅威にさらされるという事態に陥ったのである。
 実際、664年4月には、唐の鎮将・劉仁願の使者が来倭している。さらにその翌年には、唐皇帝直接の使者である劉徳高が入京を果たしている。倭国はこの時をもって唐の占領下におかれたという説もある。それについては異論もあろうが、唐の影響下におかれたという点においては、当たらずとも遠からずといったところだろう。唐に留学していた中臣鎌足の長男・定慧が、劉徳高とともに帰国し、時をおかずして毒殺されたという伝承も、それが事実かどうかはおくとしても、唐の不気味な圧力を感じさせる。
 また、劉徳高が入京した際、大友皇子の人相を誉めたというエピソードが「懐風藻」に伝えられている。人相を誉められたからといって大友皇子が唐の占領を良しとしていたと断言はできないが、友好的な態度で徳高を迎えたのは間違いのないところだろう。
 さらに671年、天智天皇の死の一か月前、郭務悰に率いられた2千人の唐人が対馬に到着したという記事が日本書紀にある。同じ記事がその2年前にもあり、重出とみられるが、いずれかの時期に唐からいわばGHQがやってきたのは事実だろう。船を使うしかなかったあの時代、2千人もの人員を派遣してくるのは、それが目的としか考えられない。
 そう考えれば、天智死後に起こった壬申の乱は、唐の占領を受け入れようとする大友皇子と、それに反対する大海人皇子の戦いだったとみることもできる。反乱側だったはずの大海人皇子に、各地の豪族たちが雪崩をうつかのように寝返ったのも、それで容易に説明がつく。もしその仮説が正しいとするなら、壬申の乱は、この国の「独立戦争」だったといえるだろう。 
 壬申の乱に勝利した大海人皇子、すなわち天武天皇が、国号を倭国から「日本」に変えたのは、伊勢設立と無関係ではないはずだ。新生国家のシンボルとして、新たな国号と、その象徴となる神の宮の造営は、表裏一体として不可欠なものだったに違いない。

 現在にいたるまで、日本の信仰の中心として再生を繰り返してきた伊勢神宮。それを造り出したのは、真の独立国家として歩み出そうとするこの国の「矜持」そのものだったのではないだろうか。

(2014年1月15日)

古代史
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